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【原始仏教】仏教の瞑想法を四無量心の観点から考察Ⅱ

 

hiruandon-desu.hatenablog.com

上記の記事の続きになります。慈・悲・喜・捨の完成(終結)とは何か?について、今回触れていきたいと思います。

〇九次第定について

四無量心の話に入る前にまず九次第定について。安止定である四禅・四無色定・想受滅定は九次第定と言われますが、その九次第定について、パーリ仏典では次のような文章で登場することが多いかと思います。

○初禅

比丘は諸々の欲望を離れ、諸々の不善を離れ、尋(具体的思考)と伺(抽象的思考)があり、遠離より生じる喜と楽がある初禅を体得して住む。

○第二禅

比丘は尋と伺を静めているから、内心が清浄の、無尋・無伺の心統一より生じた喜と楽ある第二禅を体得して住む。

○第三禅

比丘は喜を静め、平静心となり、正念あり、正知あり、身に楽を感受し、聖者達が平静心を得、正念ある者は安楽に住む者であると説く第三禅を体得して住む。

○第四禅

比丘は楽を静め、苦を静め、以前に喜と憂を静めているから、不苦・不楽にして、平静心による思念の清浄という第四禅を体得して住む。

○空無辺処定

比丘は全ての色の想いを超え、諸々の有対(相対視)の想いを静め、種々の想いを作意しないから、『虚空は無辺である』という無辺なる虚空の領域の想いを体得して住む。

○識無辺処定

比丘は全ての無辺なる虚空の領域の想いを超え、『識は無辺である』という無辺なる識の領域の想いを体得して住む。

○無所有処定

比丘は全ての無辺なる識の領域の想いを超え、『如何なるものも存在しない』という無所有の領域の想いを体得して住む。

○非想非非想処定

比丘は全ての無所有の領域の想いを超え、『想いが有るのでもなく、無いのでもない』という領域の想いを体得して住む。

○想受滅定

比丘は全ての『想いが有るのでもなく、無いのでもない領域』の想いを超え、想と受を静めて住む。そして、智慧によって見て、煩悩が滅尽されたことを知る。

 

初禅に入った者は言語的活動(口行)が静まります。同じように、第二禅に入った者は言葉(口行)を形成する尋伺(具体的思考と抽象的思考)が、第三禅に入った者は喜悦が、第四禅に入った者は身体的活動(身行)を形成する粗い出息入息が静まります。続く四無色定において、空無辺処定に入った者は色に対する想いが、識無辺処定では空無辺処の想いが、無所有処定では識無辺処の想いが、非想非非想処定では無所有処の想いが静まります。最後の想受滅定では心理的活動(意行)を形成する想と受が静まり、貪欲・瞋恚・迷妄(無明)が滅尽します。

 

このように、何となくイメージがつきにくい四禅や四無色定ですが、慈悲喜捨の四無量心と大きく関係しています。

 

〇四無量心について

とは「一切の有情は幸福であれかし。」などと念じ、利益と安楽をもたらそうと願うことです。似て非なる心情が貪欲・愛執であり、退治される心情が瞋恚です。

とは「どうか一切の有情が、この苦しみから脱れますように。」などと念じ、不利益や苦しみを除去しようと願うことです。似て非なる心情が憂悲であり、退治される心情が害心です。

とは「実に尊い有情たちは喜んでいる。彼らは見事によく喜んでいる。」などと心に思って喜び、彼らが利益と安楽から離れないように願うことです。似て非なる心情が世俗的な喜悦であり、退治される心情が不快・嫉妬です。

とは「一切の有情はすべて等しく業を自己とする。何事も自己の業によって知られるであろう。」と苦楽を観察することです。似て非なる心情が世俗的な無智の無関心であり、退治される心情が瞋恚と貪欲です。

 

慈・悲・喜と捨は性質を異にするものであることが分かります。前者は「情」、後者は「理」に属する性質です。慈・悲・喜は情に流されて過度になってしまうといけないので、捨に帰して静まることで、四無量心として調和が保たれることになると思います。

 

〇四無量心と九次第定の関係について

「パーリ仏典 相応部 大篇 覚支相応」において、に因れば浄解脱(色界四禅)が、に因れば無色界の空無辺処が、に因れば無色界の識無辺処が、に因れば無色界の無所有処が最高の境地(終結・完成)として得られることが説かれています。

 

一切有情の幸福を願う慈に住む者は、有情の安楽を随観し、有情に好ましい遍浄色に対して、その心は専注します。慈は浄解脱(色界四禅処)を完成とします。(慈倶の四禅)

苦悩する有情の苦が消えることを願う悲に住む者は、色相のある有情の苦を随観し、色の過患をよく知るため、色から出離する虚空に、その心は専注します。悲は空無辺処を完成とします。(悲倶の空無辺処定)

喜んでいる有情が得られた幸福から転落しないことを願う喜に住む者は、喜びが生じている有情の識を随観し、自身に喜が生じるため、その心は虚空相を対象とする識に専注します。喜は識無辺処を完成とします。(喜倶の識無辺処定)

慈・悲・喜が帰して静まるところの捨に住む者は、有情は誰しも業を有し、その視点では等しく生きていると業自体を随観し、慈・悲・喜の過度を離れて調和が保たれているため、その心は識の無に専注します。捨は無所有処を完成とします。(捨倶の無所有処定)

 

このように、四無色定は四無量心を倶備して修められることで、倶解脱(心解脱と慧解脱)にも関わる重要な意味を持ってくるのではないかと思います。