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【原始仏教】仏教の瞑想法を四無量心の観点から考察Ⅰ

仏教の瞑想(禅定)を検索すると、おそらく「四禅(または色界四禅)」「四無色定」のような用語がよくヒットするかと思います。パーリ仏典にもよく登場し、説明もありますが、いまいちイメージがつきにくい感じがあると思います。瞑想で得られた体験を何とか強引に言葉の形で表現しているのですから、無理もない話だと思いますが。

 

そんな四禅や四無色定ですが、慈悲喜捨の四無量心との関連があまり知られていないようですね。パーリ仏典相応部、清浄道論やアビダルマ論書にもほんの僅かにしかこのあたりが登場しないためかも知れません…。そこで、今回から数回に分けて、仏教の瞑想法を四無量心の観点から考察していきたいと思います。まず、今回は瞑想(禅定)に入る前の段階からです。

 

①取相

瞑想において、導入的な瞑想対象を業処といい、ブッダゴーサ著「清浄道論」では四十に業処がまとめられています。【地・水・火・風・青・黄・赤・白・光明・限定虚空】の十遍といった視覚対象に基づくものをはじめ、【慈・悲・喜・捨】の四無量心などもここに含められています。これらを修習すると自由にその影像が心の中に顕現しますが、これを取相が生じたといいます。おそらく、「ヨーガ・スートラ」では凝念(ダーラナー)と言われる段階と思われます。

四無量心はあくまで業処の一種として扱われていますが、次の段階で登場する五蓋{貪欲・瞋恚・惛沈睡眠・掉拳後悔・疑念}という顕在煩悩の止息を考えると、これは必ず必要になってくるのではないかと筆者は考えています。

 

②近行定

取相を思い浮かべる修行に励み、次第に五蓋{貪欲・瞋恚・惛沈睡眠・掉拳後悔・疑念}を止息して、この近行定の状態となると初めて似相が生起します。似相は清らかな光明の集まりのようなものと言われます。

四無量心の瞑想では、平等心を得て自己・親しい者・無関係者・嫌いな者という壁を破ると同時に近行定へ入ることが「清浄道論」にて説明されます。この近行定は「ヨーガ・スートラ」における静慮(ディヤーナ)と言われる段階ではないかと考えられます。

 

③安止定

似相を保ち続けることに精進すれば、ついに安止定が得られて、初禅の状態になり、五自在(引転・入定・在定・出定・観察)の修習を熟練して、第二禅、第三禅、第四禅が得られます。四無量心の瞑想では、慈倶の初禅~第四禅と言われます。この安止定は「ヨーガ・スートラ」における三昧(サマーディ)と言われる段階と思われます。

五自在

・引転自在

禅定に入る直前、心はどのようになっていたか、禅定に入ってから心はどのように変わったのか。それらを順番に追って理解する能力を身に付けること

・入定自在

禅定に入りたい意欲が生じると、直に禅定に入ることができる能力を身に付けること

・在定自在

自分が望む通りの時間、禅定に留まることができる能力を身に付けること

・出定自在

禅定状態が自然に切れるのを待たずに、自分の定めた時間通りに禅定から出ることができる能力を身に付けること

・観察自在

禅定の内容と心の状態を観察して、禅定とはどういうものかと体験を客観的に振り返り理解していく能力を身に付けること

 

〇釈尊のアヌルッダ長老への瞑想指導

釈尊は十大弟子の一人、天眼第一のアヌルッダ(阿那律)へ次のように瞑想指導に行っていることが「パーリ仏典 中部」にて説かれています。おそらく、近行定の安定化から安止定への段階における指導と思われます。五蓋が心の不随煩悩(十一煩悩)として、似相が光の相と色の相として説かれています。

アヌルッダ:「尊師よ、ここに私共は怠ることなく、熱心に、自ら励み、住みつつ、光(の相)と諸々の色(の相)を見ることを認めます。しかし、私共はその光も、諸々の色を見ることもやがて消えます。しかし、その理由を洞察しておりません。」

釈尊:「私もさとりを開くよりも以前、菩薩であった頃は同様な困難と戦わねばなりませんでした。アルヌッダよ、そこで私はこのように考えました。私に{疑い・不思惟・沈鬱眠気・硬直・高ぶり・粗悪・過度の精進・過度の懈怠・欲求(渇愛)・多様な想・諸々の色に対する過度の観察状態}が生じた。しかもまた、これら十一煩悩のために私の定は没滅した。定が没滅すれば、光も、諸々の色を見ることも消える。それゆえ、私は再び私に十一煩悩が生じないように行おうと。」

「アヌルッダたちよ、そこで私は十一煩悩は心の不随煩悩であるとこのように知り、心の不随煩悩である十一煩悩を捨断しました。」

「アヌルッダたちよ、そこで私は怠ることなく、熱心に、自ら励み、住みつつ、光を認めましたが、諸々の色を認めませんでした。諸々の色を見ましたが、光を認めませんでした。それは終夜にも終夜終日にもわたりました。アヌルッダたちよ、そこで私はこのように考えました。私が色の相を思惟せず、光の相を思惟するとき光を認めるが、諸々の色を見ない。私が光の相を思惟せず、色の相を思惟するとき、諸々の色を見るが、光を認めない。それは終夜にも、終日にも、終夜終日にもわたりました。」

「アヌルッダたちよ、そこで私はこのように考えました。私の定が少量であるとき、私の眼は少量になる。そこで、私は少量の眼によって少量の光を認め、諸々の少量の色を見る。しかし、私の定が無量であるとき、私の眼は無量になる。そこで、私は無量の眼によって無量の光を認め、諸々の無量の色を見る。それは終夜にも、終日にも、終夜終日にもわたると。」

「{疑い・不思惟・沈鬱眠気・硬直・高ぶり・粗悪・過度の精進・過度の懈怠・欲求(渇愛)・多様な想・諸々の色に対する過度の観察状態}は心の不随煩悩であると、このように知り、心の不随煩悩である{疑い・不思惟・沈鬱眠気・硬直・高ぶり・粗悪・過度の精進・過度の懈怠・欲求(渇愛)・多様な想・諸々の色に対する過度の観察状態}が捨断されています。」

「アヌルッダたちよ、そこで私はこのように考えました。私には心の諸々の煩悩が捨断されている。さぁ、今から三種によって定を修習しようと。アヌルッダたちよ、そこで私は、尋のある伺のある定を修習しました。また、尋のない伺のみの定を修習しました。また、尋のない伺のない定を修習しました。また、喜びのある定を修習しました。また、喜びのない定を修習しました。また、楽と共なる定を修習しました。また、平静と共なる定を修習しました。しかも、『私の心解脱は不動である。これは最後の生まれである。もはや再生はないとの智見が生じました。』」

『パーリ仏典 中部(マッジマニカーヤ) 後分五十経篇Ⅱ』 片山一良 著を参照

 

筆者の私見も入るのですが、ここでの「光」の似相は四無量心の瞑想における「自己」に、「色」の似相は四無量心の瞑想における「親しい者・無関係者・嫌いな者」に該当するのではないかと思います。不偏の平等心が得られると「定」が安定するのですが、再び湧いてくる不随煩悩(五蓋)に崩されるため、これを克服しないといけないのでしょう。

 

◯光の相(心の光輝)

少光:瞑想に入った際の心の光輝により狭い範囲を対象に満たせること

無量光:瞑想に入った際の心の光輝により広大な範囲を対象に満たせること

汚染光:身体の粗悪(懈怠)、沈鬱眠気、掉拳後悔が十分に除かれていないので、心の光輝が薄暗いこと

清浄光:身体の粗悪(懈怠)、沈鬱眠気、掉拳後悔がよく除かれているので、心の光輝が明るく強いこと

 

◯四禅の修習

尋のある伺のある定(有尋有伺定):初禅の初段階

尋のない伺のみの定(無尋有伺定):初禅の次段階

尋のない伺のない定(無尋無伺定):第二禅~

喜びのある定:初禅~第二禅

喜びのない定:第三禅~

楽と共なる定:初禅~第三禅

平静と共なる定:第四禅~

 

ここでの釈尊は第四禅の話からいきなり解脱へ至ったかのような流れで説法が行っていますが、実際には第四禅から解脱までにはかなりの段階があります。実際、アヌルッダは次のような詩を残しているようです。

寂静にして、専一なる五支{喜の遍満・楽の遍満・心の遍満・光明の遍満・相の省察}をそなえている禅定に安息が獲得されたとき、わが天眼は清められた。

この詩の詳細は分からないのですが、おそらく喜の遍満=第二禅、楽の遍満=第三禅に該当すると思います。そして、心の遍満とは四無量心の完成(慈無量心の完成→悲無量心の完成→喜無量心の完成→捨無量心の完成)を意味し、光明の遍満は六神通の一つである天眼通を意味すると考えられます(六神通については別の記事で触れます)。