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【原始仏教】四念処Ⅲ マインドフルネス ~身・受・心・法の随観~

 

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四無量心(慈・悲・喜・捨)の瞑想と四念処(身・受・心・法の随観)は相互に関連し合い、禅定を妨げる顕在煩悩、即ち五蓋(貪欲・瞋恚・惛沈睡眠・掉拳後悔・疑)を除去する働きがあるだけでなく、禅定に入れるようになった後も引き続き重要になってきます。

○四念処(身・受・心・法の随観)

「パーリ仏典 長部 大念処経」において、四念処は次のように説かれています。

比丘たちよ、この道は諸々の生ける者が清まり、愁いと悲しみを乗り越え、苦しみと憂いが消え、正理を得、涅槃を目の当たり見るための道です。即ち、それは四念処です。

四とは何か。比丘たちよ、ここに比丘は{身・諸々の受・心・諸々の法}において{身・諸々の受・心・諸々の法}を観続け、熱心に、正知をそなえ、念をそなえ、(自己という)世界における貪欲と憂いを除いて住みます。

『ブッダのことば パーリ仏典入門』 片山一良 著を参照

 

ここでの「貪欲と憂い」と表現されているものが、禅定を妨げる五蓋を指しています。四念処の実践は、身の随観十四種、受の随観九種、心の随観十六種、法の随観五種が説かれています。

身念処(身の随観)

身念処とは、自己と他者の身において身を観続けて住むこと、そして身において生起の法と消滅の法を観続けて住むことです。身の随観十四種のうち、第一と第二の随観を見ていきます。

出息・入息の把握(安般念)

念をそなえて出息し、念をそなえて入息します。

長く出息をする時、『私は長く出息をする』と知り、長く入息をする時、『私は長く入息をする』と知ります。

短く出息をする時、『私は短く出息をする』と知り、短く入息をする時、『私は短く入息をする』と知ります。

『私は全身(出息の初・中・後)を感知して出息しよう』と学び、『私は全身(入息の初・中・後)を感知して入息しよう』と学びます。

『私は身行(粗い出息)を静めつつ出息しよう』と学び、『私は身行(粗い入息)を静めつつ入息しよう』と学びます。

以上のように、内の身において、身を観続けて住みます。あるいは、外の身において、身を観続けて住みます。あるいは、内と外の身において、身を観続けて住みます。

また身において、生起の法を観続けて住みます。あるいは、身において、消滅の法を観続けて住みます。あるいは、身において、生起と消滅の法を観続けて住みます。そして、彼に『身がある』との念が現前します。

『ブッダのことば パーリ仏典入門』 片山一良 著より引用

 

自己(内)の身(息という身)を観続け、あるいは他者(外)の身も(自己の身と)同じであると観続け、あるいは時には自己の身を、時には他者の身を同じであると観続けます。

また、例えば鍛冶工の鞴(ふいご)と吹き筒とそれに応じた努力とによって風が起こるように、人の身体と鼻孔と心(意志)によって粗い息(身行)が生起すること(生起の法)を観続け、鞴と吹き筒とそれに応じた努力とがなければ風が起こらないように、身体と鼻孔と心(意志)とが消滅すれば粗い息(身行)が滅尽すること(滅尽の法)を観続けます。そこから続いて、実際の身行(行住坐臥など)が随観の対象になっていきます。

威厳路の観

行っているときは『私は行っていると』と知ります。

立っているときは『私は立っている』と知ります。

坐っているときは『私は坐っている』と知ります。

臥しているときは『私は臥している』と知ります。

そして、彼はその身が存する通りにそれを知ります。そして、彼に『身がある』との念が現前します。

『ブッダのことば パーリ仏典入門』 片山一良 著より引用

 

受念処(受の随観)

受念処とは、自己と他者の受において受を観続けて住むこと、そして受において生起の法と消滅の法を観続けて住むことです。受の随観九種は次のようになります。

楽の受を感受すれば、『私は楽の受を感受する』と知ります。

苦の受を感受すれば、『私は苦の受を感受する』と知ります。

非苦非楽の受を感受すれば、『私は非苦非楽の受を感受する』と知ります。

欲に関わる楽の受を感受すれば、『私は欲に関わる楽の受を感受する』と知ります。

無欲に関わる楽の受を感受すれば、『私は無欲に関わる楽の受を感受する』と知ります。

欲に関わる苦の受を感受すれば、『私は欲に関わる苦の受を感受する』と知ります。

無欲に関わる苦の受を感受すれば、『私は無欲に関わる苦の受を感受する』と知ります。

欲に関わる非苦非楽の受を感受すれば、『私は欲に関わる非苦非楽の受を感受する』と知ります。

無欲に関わる非苦非楽の受を感受すれば、『私は無欲に関わる非苦非楽の受を感受する』と知ります。

そして彼に『受がある』との念が現前します。

『ブッダのことば パーリ仏典入門』 片山一良 著より引用

 

誰しも受け入れなければならない第一の矢によって引き起こされる苦受・楽受・捨受の観察です。

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心念処(心の随観)

心念処とは、自己と他者の心において心を観続けて住むこと、そして心において生起の法と消滅の法を観続けて住むことです。心の随観十六種は次のようになります。

貪りのある心を『貪りのある心』であると知ります。あるいは、貪りを離れた心を『貪りを離れた心』であると知ります。

怒りのある心を『怒りのある心』であると知ります。あるいは、怒りを離れた心を『怒りを離れた心』であると知ります。

愚癡のある心を『愚癡のある心』であると知ります。あるいは、愚癡を離れた心を『愚癡を離れた心』であると知ります。

萎縮した心を『萎縮した心』であると知ります。あるいは、散乱した心を『散乱した心』であると知ります。

禅定に入った心を『偉大になった心』であると知ります。あるいは、禅定に入ってない心を『偉大になっていない心』であると知ります。

悟っていない心を『有上の心』であると知ります。あるいは、悟っている心を『無上の心』であると知ります。

安定した心を『安定した心』であると知ります。あるいは、安定していない心を『安定していない心』であると知ります。

解脱した心を『解脱した心』であると知ります。あるいは、解脱していない心を『解脱していない心』であると知ります。

…そして、彼に『心がある』との念が現前します。

『ブッダのことば パーリ仏典入門』 片山一良 著より引用

 

第一の矢の三受をありのままに受け入れることができた心、もしくは受け入れることができずに第二の矢・第三の矢を受けて煩悩が生じた心の観察と言えるかもしれません。仮に煩悩が生じたとしても、そのことに気付くことができれば、増長させずに対処できますね。

法念処(法の随観)

法念処とは、自己と他者の法において法を観続けて住むこと、そして法において生起の法と消滅の法を観続けて住むことです。法の随観五種における法とは、五蓋、五取蘊、十二処、七覚支、四諦です。不善法の代表として五蓋の観察を、善法の代表として七覚支の観察を見ていきます。

五蓋の随観

①内に貪欲が有れば、内に貪欲が有ると知ります。内に貪欲が無ければ、内に貪欲が無いと知ります。未だ生じていない貪欲がどのように生じるのかを知ります。既に生じている貪欲がどのように断たれるのかを知ります。断たれている貪欲が未来にどのように生じないのかを知ります。

②内に瞋恚が有れば、内に瞋恚が有ると知ります。内に瞋恚が無ければ、内に瞋恚が無いと知ります。未だ生じていない瞋恚がどのように生じるのかを知ります。既に生じている瞋恚がどのように断たれるのかを知ります。断たれている瞋恚が未来にどのように生じないのかを知ります。

③内に惛沈・睡眠が有れば、内に惛沈・睡眠が有ると知ります。内に惛沈・睡眠が無ければ、内に惛沈・睡眠が無いと知ります。未だ生じていない惛沈・睡眠がどのように生じるのかを知ります。既に生じている惛沈・睡眠がどのように断たれるのかを知ります。断たれている惛沈・睡眠が未来にどのように生じないのかを知ります。

④内に掉拳・後悔が有れば、内に掉拳・後悔が有ると知ります。内に掉拳・後悔が無ければ、内に掉拳・後悔が無いと知ります。未だ生じていない掉拳・後悔がどのように生じるのかを知ります。既に生じている掉拳・後悔がどのように断たれるのかを知ります。断たれている掉拳・後悔が未来にどのように生じないのかを知ります。

⑤内に疑念が有れば、内に疑念が有ると知ります。内に疑念が無ければ、内に疑念が無いと知ります。未だ生じていない疑念がどのように生じるのかを知ります。既に生じている疑念がどのように断たれるのかを知ります。断たれている疑念が未来にどのように生じないのかを知ります。

…そして、彼に『法がある』との年が現前します。

『ブッダのことば パーリ仏典入門』 片山一良 著を参照

 

五蓋(貪欲・瞋恚・惛沈睡眠・掉拳後悔・疑)のように不善の法であれば、四正勤にて、それがどのように新生されてしまい、既に生じているものはどのように断たれ、再発しないのかという法則も観察対象になっていきます。瞋恚や貪欲の退治には慈悲喜捨の四無量心が、惛沈・睡眠や掉拳・後悔の退治には、善の法として観察対象となっている下記の七覚支(念・択法・精進・喜・軽安・定・捨)が活躍してくれます。

七覚支の随観

①内に念という優れた悟りの部分が有れば、内に念という優れた悟りの部分が有ると知ります。内に念という優れた悟りの部分が無ければ、内に念という優れた悟りの部分が無いと知る。未だ生じていない念という優れた悟りの部分がどのように生じるのかを知る。既に生じている念という優れた悟りの部分の修習が如何に成就するかを知る。

②内に択法という優れた悟りの部分が有れば、内に択法という優れた悟りの部分が有ると知ります。内に択法という優れた悟りの部分が無ければ、内に択法という優れた悟りの部分が無いと知る。未だ生じていない択法という優れた悟りの部分がどのように生じるのかを知る。既に生じている択法という優れた悟りの部分の修習が如何に成就するかを知る。

③内に精進という優れた悟りの部分が有れば、内に精進という優れた悟りの部分が有ると知ります。内に精進という優れた悟りの部分が無ければ、内に精進という優れた悟りの部分が無いと知る。未だ生じていない精進という優れた悟りの部分がどのように生じるのかを知る。既に生じている精進という優れた悟りの部分の修習が如何に成就するかを知る。

④内に喜という優れた悟りの部分が有れば、内に喜という優れた悟りの部分が有ると知ります。内に喜という優れた悟りの部分が無ければ、内に喜という優れた悟りの部分が無いと知る。未だ生じていない喜という優れた悟りの部分がどのように生じるのかを知る。既に生じている喜という優れた悟りの部分の修習が如何に成就するかを知る。

⑤内に軽安という優れた悟りの部分が有れば、内に軽安という優れた悟りの部分が有ると知ります。内に軽安という優れた悟りの部分が無ければ、内に軽安という優れた悟りの部分が無いと知る。未だ生じていない軽安という優れた悟りの部分がどのように生じるのかを知る。既に生じている軽安という優れた悟りの部分の修習が如何に成就するかを知る。

⑥内に定という優れた悟りの部分が有れば、内に定という優れた悟りの部分が有ると知ります。内に定という優れた悟りの部分が無ければ、内に定という優れた悟りの部分が無いと知る。未だ生じていない定という優れた悟りの部分がどのように生じるのかを知る。既に生じている定という優れた悟りの部分の修習が如何に成就するかを知る。

⑦内に捨という優れた悟りの部分が有れば、内に捨という優れた悟りの部分が有ると知ります。内に捨という優れた悟りの部分が無ければ、内に捨という優れた悟りの部分が無いと知る。未だ生じていない捨という優れた悟りの部分がどのように生じるのかを知る。既に生じている捨という優れた悟りの部分の修習が如何に成就するかを知る。

…そして、彼に『法がある』との年が現前します。

『ブッダのことば パーリ仏典入門』 片山一良 著を参照

 

七覚支は善法であるため、四正勤にて、それがどのようにしたら新生することができ、既に生じているものはどのようにしたら維持・増大できるのかも観察対象になります。そんな七覚支については、Wikipediaで割と詳細に説明がされています。

ja.wikipedia.org

マインドフルネス(念)中の心が懈怠・惛沈・睡眠に傾いているとき(努力不足)には喜覚支・択法覚支・精進覚支の修習が、逆に心が掉拳・後悔に傾いているとき(努力過剰)には軽安覚支・定覚支・捨覚支の修習が適しているとされます。

 

まとめ

1.自己(内)の{身・受・心・法}を観続け、他者(外)の{身・受・心・法}も自己のものと同じであることを観続ける

2.{身・受・心・法}における生起の法と消滅の法を観続け、自己と他者のそれらがいずれも因縁によって成り立つことを観続ける

 

四無量心も四念処も自己と他者が対象になってくる点が大きく共通していると思われます。そして、四無量心が瞑想の情的要素であったのに対し、四念処は瞑想の知的要素な感じがあります。そう考えると、四正勤や四神足は瞑想の意的要素が強いのかもしれません。どれも密接につながっており、修行者の適性によって入っていき方も異なってくるものと思われます。