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【原始仏教】四念処Ⅱ 慈悲喜捨の四無量心(四梵住)・慈悲の瞑想

 

hiruandon-desu.hatenablog.com

上の記事の続きになりますが、我々は自身を感受(苦受・楽受・捨受)と一体化させた状態で生活していると言えると思います。更に言うと、五蘊と一体化させた状態ですね。例えるならば、五蘊という箱の中に閉じ込められた状態では、五蘊という箱自体を俯瞰・洞察することは不可能です(箱の外側、箱の外の世界を知ることはできない)。

 

五蘊を我と誤認している(五蘊の箱の中にいる)状態における我々は、何事においても「自分、自分!私、私!」であり、ある意味独我論的な認識形態です。ここに、慈悲の心があって、即ち五蘊という箱の外に出ることができれば、今自分が存在することができるのは他者や環境があるからだというを実感できるのではないでしょうか。このような縁の共同体における自分こそ真の自己と呼べるものではないかと思います。現に大乗仏教では、真如縁起(不動真如と随縁真如の二義)という思想が登場します。また、大乗仏教の唯識派でも阿頼耶識縁起における共相種子という自他の縁に関わる重要な思想が説かれています。

 

さて、四無量心の瞑想は「怒りを消す効果がある」のように表現されることが多いのですが、重要なのはその怒りが私憤の域に過ぎないものなのか、義憤の域にあるものなのか、であると筆者は考えます。人々が義憤を捨ててしまうと、残忍非道が肯定されてしまい、一切衆生の幸福への願いからかけ離れた現実が実現してしまいます。それは道徳(戒律)を重んじる仏教の立場とは異なると思われます。

人道を外れている者は自らの残忍非道な行いが先の将来、自身を地獄の苦難へ突き落すことを知らないため、そんな彼らに対しては「まず、彼らに心から悔恨と贖罪の念が生じるように」との願いを含めての幸福を祈る形になるかと筆者は個人的に考えています。

 

〇四無量心

四念処(身・受・心・法)の瞑想の実践に入る前に、心を落ち着かせるために四無量心(慈・悲・喜・捨)の瞑想を行います。心を落ち着かせるための実践として、「安般念」という調息法もありますが、そちらはまた別の記事で触れたいと思います。さて、慈悲の実践について「パーリ仏典 小部 経集(スッタニパータ)」では次のように説かれています。

何ぴとも他人を欺いてはならない。たといどこにあっても他人を軽んじてはならない。悩まそうとして怒りの想いをいだいて互いに他人に苦痛を与えることを望んではならない。

あたかも、母が己が独り子を命を賭けても護るように、そのように一切の生きとし生けるものどもに対しても無量の(慈しみの)こころを起こすべし。

また全世界に対して無量の慈しみの意(こころ)を起こすべし。上に、下に、また横に、障害なく怨みなく敵意なき(慈しみを行うべし)。

立ちつつも、歩みつつも、坐しつつも、臥しつつも、眠らないでいる限りは、この(慈しみの)心づかいをしっかりとたもて。この世ではこの状態を崇高な境地と呼ぶ。

『ブッダのことば―スッタニパータ』中村元 著より引用

 

行・住・坐・臥という一切の威儀路において、親が子に対するように、一切の有情(生きとし生けるもの)に対して無量の心を起こし、念じるべきであることを説いています。慈悲喜捨の一つ一つを見ていくと、以下のようになります。

慈無量心の瞑想:慈愛心の遍満する瞑想

慈とは「一切の有情は幸福であれかし。」などと念じ、利益と安楽をもたらそうと願うことです。

ここに比丘は、慈しみのある心をもって、一つの方角に、また第二の方向、第三の方向、第四の方向に満たし住みます。このように、上・下・横・遍く一切の処・一切の世界に、慈しみのある、広大・広博・無量にして怨みなく害することのない心をもって満たし住みます。

悲無量心の瞑想:同情心の遍満する瞑想

悲とは「ああ、どうか一切の有情が、この苦しみから脱れますように。」などと念じ、不利益や苦しみを除去しようと願うことです。

ここに比丘は、憐れみのある心をもって、一つの方角に、また第二の方向、第三の方向、第四の方向に満たし住みます。このように、上・下・横・遍く一切の処・一切の世界に、憐れみのある、広大・広博・無量にして怨みなく害することのない心をもって満たし住みます。

喜無量心の瞑想:同慶心の遍満する瞑想

喜とは「実に尊い有情たちは喜んでいる。彼らは見事によく喜んでいる。」などと心に思い、彼らが利益と安楽から離れないように願うことです。

ここに比丘は、喜びのある心をもって、一つの方角に、また第二の方向、第三の方向、第四の方向に満たし住みます。このように、上・下・横・遍く一切の処・一切の世界に、喜びのある、広大・広博・無量にして怨みなく害することのない心をもって満たし住みます。

捨無量心の瞑想:平静心の遍満する瞑想

捨とは「何事も自己の業によって知られるであろう」と苦楽を観察することです。

ここに比丘は、平静のある心をもって、一つの方角に、また第二の方向、第三の方向、第四の方向に満たし住みます。このように、上・下・横・遍く一切の処・一切の世界に、平静のある、広大・広博・無量にして怨みなく害することのない心をもって満たし住みます。

 

このように、四無量心の瞑想は初期仏教の頃から説かれていますが、その実践方法が具体的に整備されたのは、後のブッダゴーサ長老著『清浄道論』における解釈からではないかと言われています。四無量心における祈りの対象を順にみていくと、慈と悲は自己→親しい者→無関係者→嫌いな者の順、喜は親しい者→無関係者→嫌いな者の順、捨は無関係者→親しい者→嫌いな者の順となっています。

 

また、日本テーラワーダ仏教協会では次の「慈悲の瞑想」が説かれています。

ja.wikipedia.org

私は幸せでありますように
私の悩み苦しみがなくなりますように
私の願いごとが叶えられますように
私に悟りの光が現れますように
私は幸せでありますように(3回)

私の親しい生命が幸せでありますように
私の親しい生命の悩み苦しみがなくなりますように
私の親しい生命の願いごとが叶えられますように
私の親しい生命に悟りの光が現れますように
私の親しい生命が幸せでありますように(3回)

生きとし生けるものが幸せでありますように
生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように
生きとし生けるものの願いごとが叶えられますように
生きとし生けるものに悟りの光が現れますように
生きとし生けるものが幸せでありますように(3回)

ここまでがワンセットで、さらに続きます。

私の嫌いな生命が幸せでありますように
私の嫌いな生命の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな生命の願いごとが叶えられますように
私の嫌いな生命に悟りの光が現れますように

私を嫌っている生命が幸せでありますように
私を嫌っている生命の悩み苦しみがなくなりますように
私を嫌っている生命の願いごとが叶えられますように
私を嫌っている生命に悟りの光が現れますように

生きとし生けるものが幸せでありますように(3回)

回向の文

仏法僧の三宝に礼拝、帰依し、戒をまもり、慈悲の瞑想と、ヴィパッサナー修行によって積まれたこの功徳を、神々、先祖、祖父母、両親、親族、恩師をはじめとし、一切の生きとし生けるものに、回向いたします。
この功徳によって、すべての生きとし生けるものが幸福に暮らせますように。
そして、解脱が得られますように。