〇道元禅師の本証妙修と身心脱落
唐代の中国で南宗禅を大成した禅宗第六祖の大鑑慧能(638-713)が曹渓という場所を拠点に教えを広め、その教えを受け継いだ禅僧の洞山良价(807-869)が洞山という場所を拠点に教えを広めたことから、後に曹渓と洞山の頭文字をとって曹洞宗と呼ばれるようになります。宋代以降の中国にて曹洞宗は大きく発展し、臨済宗と勢力を二分しました。日本には鎌倉時代のはじめに入宋した道元(1200-1253)によって伝えられました。道元は比叡山で出家してそこで多くを学んだものの、「天台本覚思想」への疑念と比叡山の堕落に失望し、山を下ることになりました(法然・親鸞・栄西・日蓮も道元と同じく比叡山で学びましたが、堕落した比叡山に少なからず疑念または失望を抱いていたことでしょう)。天台本覚思想の主張の通り、我々衆生が本来本法性・天然自性身(衆生は本来覚っている)と言うならば、三世諸仏や祖師方は何のために発心・修行したのか?という疑念を抱いていた道元は、比叡山の大徳達に問いかけましたが、誰一人答えられなかったようです。こうして、宋に渡った道元は曹洞宗の天童如浄(1163-1228)から「身心脱落」の体験を学び、自身の疑念への答えを見つけて帰国しました。
注意)「本覚」という言葉がはじめて登場したのは『大乗起信論』です。比叡山の天台本覚思想は『大乗起信論』の本覚が拡大解釈されているため、同じ「本覚」でも意味が異なります。『大乗起信論』は基本的に伝統的な如来蔵思想の立場であり、我々衆生は如来蔵(仏性)を有するので本覚(覚)(不生不滅)ですが、その如来蔵(仏性)は無始以来の外来的な煩悩の塵垢に覆いつくされて本来の働きができていない未覚(不覚)(生滅変化)の状態です。修行によって不覚の状態から本来の覚に戻ろうとする働きを始覚と説いています。『大乗起信論』の本覚は遍在的かつ内在的なものでしたが、天台本覚思想では生滅変化する現象界の現実こそ不生不滅の真理の姿として本覚が現前的または顕在的なものとなっています。そのため、草木成仏などの素晴らしい思想を説いた一方で、仏と凡夫の差は生滅変化する現実の諸相がそのまま不生不滅の真理の姿であるかを知るか知らなかの相違でしかないことになり、後に現実直接肯定の修行不要論に繋がって比叡山の堕落を招きました。
道元が著書『正法眼蔵』の中で強調したことは、「本証妙修(修証一等)」なるが故に証(覚り)は修(修行)に現成し、「身心一如にして性相不二なる」が故に心は身へと現し、性は相へと具現すべきということでした。修と証はもともと不可分であり、修は証を目指すものではなく、修の中に証があり、証の中に修があるということです。大雑把に言うと、我々衆生は生まれながらに仏であろう(本覚)と、なかろう(始覚)と、仏の行い(行仏)をすべき!ということです。曹洞宗の「只管打坐(生活禅)」は身体で坐り、心で坐り、仏法を会得するとの思想のもと、通常の坐禅は勿論、日常生活の一拳手一投足(行住坐臥)を坐禅と見なし、その只中にこそ覚り(涅槃)があるとします。道元の仏道の目的は只管打坐を通した「身心脱落」にあり、「身心脱落」とは自己や他己が有する身心(自我や他我)への執着を離れた清々しい悟りの境地であるといいます。
『正法眼蔵』の「行仏威儀」の巻より
諸仏かならず威儀を行足す。これ行仏なり。行仏それ報仏にあらず、化仏にあらず、自性身仏にあらず、他性身仏にあらず、始覚本覚にあらず、性覚無覚にあらず。如是等仏、たえて行仏に斉肩することべからず。
と説き、「これ行仏の威儀なる、任心任法・為法為身の道理なり。さらに始覚・本覚等の所及にあらず」と始覚・本覚の論を超えた行仏の威儀を説いているのは天台本覚思想にあぐらをかいて堕落した僧達への解答のようにも感じられます。これは古代インドにおいて、素晴らしい先祖達の功績の上にあぐらをかいて堕落したバラモン達に対し、「生まれによってバラモンとなるのではない。生まれによって、バラモンならざる者となるのではない。行為によって、バラモンなのである。行為によって、バラモンならざる者なのである。」と物申した釈尊の姿が重なります。また、釈尊は「身心脱落」に繋がると思われる次のような説法も行っています。
『パーリ仏典 小部』「ウダーナ」より
これらの人々は自我の観念に執着し、他我の観念に縛せられている。ある人々はこのことを知らなかった。またそれを〔束縛の〕矢であるとは見なかった。しかるにこれを矢であるとあらかじめ見た人には「われがなす」という念も起こることなく、「他人がなす」という念も起こることがない。
道元の仏性観は独特とも言われています。道元は、仏性は成仏より先に具足されるのではなく、成仏より後に具足するとし、作仏するのは個々人であって仏性が作仏するのではないとまで言い切っています。その上で、「有仏性・無仏性・無常仏性」を説く道元の真意は「一切衆生有仏性」に対する彼の解釈から考察することができます。『正法眼蔵』の仏性の巻の冒頭において、『大乗涅槃経』の一句「一切衆生悉有仏性」(一切衆生は悉く仏性を有する)に対して、道元が行った解釈は「悉有は仏性なり、悉有の一悉を衆生といふ」でした。「悉有は仏性なり」という読み方は漢文としては勝手な読みですが、「現成公案」の理に通じる表現です。道元が強調する「無仏性・無常仏性」の根底にあるのは「悉有は仏性」という現成公案の理であり、全宇宙なる仏性の中で我々は生活しているということです(ここでの仏性は如来法身に近い意味になっています)。仏性こそ万有を生かす命であって、有情や山川草木国土の全てが「仏の命」の現前(仏性現前)であるという世界観です。故に、本来覚っているという修行不要論的な要素を除けば、道元は天台本覚思想の骨格を継承していると考えることもできます。道元は『正法眼蔵』の「生死」巻の中で、「この生死は即ち仏の御命なり」と説き、その命は人間の身勝手な計らいを超えて大自然の中に生かされて、死に行くものであるといいます。その営みに逆らうことなく歩を一にした時、人は涅槃の境地(生死即涅槃)に安住することができるということでしょう。
〇西田幾多郎の行為的直観
京都学派創始者の西田幾多郎(1870-1945)は歴史的世界という我々の本来の立場において、我々は常に三つの方向から自己を超越した存在の限定を受けていると述べています。ただし、自己自身が限定を受けることが同時に他者を限定していることになります。本来の立場における我々の自己を西田は「人格的自己:真の個物」等と表現しており、自己を限定すると同時に限定される三つとは、①環境、②汝(他者の人格的自己・個物)、③超越的我(絶対無・一般者・神仏)のことです。
①の限定は、「主体(個物)が環境を限定すると同時に、環境が主体(個物)を限定する」ことを意味します。
②の限定は、個物(自己)と個物(他者)が相互に限定し合って、世界や歴史を創造していくこと(個物的限定)を意味します。
③の限定は、世界(一般者・神仏)の自己限定(一般的限定)によって個物や環境が創造されると同時に、①と②の限定によって世界が創造されていくことを意味します。これを「個物的限定即一般的限定・一般的限定即個物的限定」といいます。
さて、自己(私)と他者(汝)は絶対的に他なるもの、即ち非連続同士です。その根拠に我々は、自己の思考内容を知るようには他者の思考内容を直接知ることができません。しかし、西田はこのような状態の自己と他者を「意識的自己」とし、それらの底にある「人格的自己」(真の自己同士)とは異なるとします。人格的自己は他者を自己と同様に一つの独立した人格として認め、独立した人格として敬うところに成立するとします。他者を独立した人格として認めて敬うということは、「自己の内に他者を見、他者の内に自己を見る」ということであると西田は説いています。自己は他者を独立した人格として承認することによって、自己の内に他者を見、他者の内に自己を見ることになり、自己と他者は「非連続の連続」の関係にあります。西田は「私は私の底を通して汝と出会い、また汝は汝の底を通して私と出会っている。」と表現します。
このように後期の西田哲学は、自己の側から環境や他者を見るのではなく、逆に自己の底にあたる世界の側(一般者)からその自己限定、即ち世界の創造的な一要素として自己(個物)や他者(個物)を見ていきます。それを弁証法的世界の立場、絶対矛盾的自己同一の立場もしくは行為的直観の立場などと表現します。より厳密に言うと主観と客観を超えた場所(個物的多と全体的一を超えた場所)から見ていこうとするもので、この時期、西田は「物となって見、物となって行う」という言葉を頻繁に用いてそれを表現しています。行為的直観を大雑把に言うと、自己が自己としての自性(自己自身)を否定したところから行為すること、あるいは例えば自己が物になりきって見たり、物になりきって行為することをいうのです。それは自己が純粋に世界を映す鏡となることであると同時に自己が世界の創造的尖端となって働くことです。この行為的直観あるいは「物となって見、物となって行う」という考えは、『正法眼蔵』の「現成公案」の巻にある道元の次の言葉に呼応していることは瞭然です。
「自己をはこびて万法を修証するを迷とす。万法すすみて自己を修証するはさとりとなり……仏道をならふといふは、自己をならふ也。自己ならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。」
いずれも主観・客観の対立を超越した絶対的な意味での底(内)(深層)から照らされるという考え方です。
〇親鸞聖人の自然法爾
浄土真宗開祖の親鸞(1173-1263)の生涯において、「自然法爾」の思想が登場したのは最晩年と言われ、著書『末灯抄』あるいは『三帖和讃』の「自然法爾章」に説かれています。
『末灯抄』より
自然といふは、自はをのづからといふ、行者のはからひにあらず、然といふはしからしむといふことばなり。しからしむといふは行者のはからひにあらず、如来のちかひにてあるがゆへに法爾といふ。法爾といふは、この如来の御ちかひなるがゆへにしからしむるを法爾といふなり。法爾はこの御ちかひなりけるゆへに、すべて行者のはからひのなきをもて、この法の徳のゆへにしからしむといふなり、すべてひとのはじめてはからはざるなり。このゆへに義なきを義とすとしるべしとなり。
自然というのは人間の身勝手な計らいではなく、阿弥陀如来の本願力によって自ずからそうなるという計らいであり、自然が如来の本願だからこそ法爾ということになります。自己や他者の底(内)(深層)に現れる自然法爾の世界においては、人間の身勝手な計らいは働かず、そこで働くものは阿弥陀如来の本願という自然の法則のみです。阿弥陀如来の本願は自然の法則に則って成就されたものであるため、法爾とは法則そのままに働くことであり、「自然法爾章」で次のように語られています。
「自然法爾章」より
ちかひのやうは無上仏にならしめんとちかひたまへるなり、無上仏とまふすはかたちもなくまします。かたちもましまさぬゆへに自然とはまふすなり。かたちましますとしめすときは無上涅槃とはまふさず、かたちもましまさぬやうをしらせんとて、はじめに弥陀仏とぞききならひてさふらふ。弥陀仏は自然のやふをしらせんれうなり。
阿弥陀如来は全衆生を無上仏(無上涅槃)(法性法身)に導こうと誓いました。そして、ここでは形のない無上仏こそが自然であることが説かれ、逆に形がある時は無上涅槃(無上仏)とは言わないことが述べられています。形のない自然そのものである涅槃へ衆生を入らせるために、そこから形を具えて現れたのが阿弥陀如来ということです。
親鸞は、我々全衆生が阿弥陀如来より本願を通して頂戴した「大信心(他力廻向の信心)」に重きを置きました。阿弥陀如来の本願を信ずるという場合、誰しも最初は疑いを含んだ自力の信心から始まりますが、その疑いが晴れて受け入れる時、大信心を得て必ず救われることが決定します。
〇行為的直観と自然法爾と身心脱落
西田幾多郎は自身の行為的直観の思想の先駆を、親鸞の「自然法爾」の思想と道元の「身心脱落」の思想に見ようとしていました。親鸞の「自然法爾」は事にあたって「己を尽くす」という要素が含まれていなければならないと西田は説きます。続けて、単になるがままということではなくして、力の限りを尽くして努力するということでなければならないと。
自己の本当の努力というものは、自分の身勝手な計らいによって行われるのではなく、「自己と他者を包むもの(真の自己とも言う)」によって行わされる(自ずから然らしめられる)ものであって、それこそが正しい努力(正精進)と呼べると筆者は思います。身近な例でいうと、純粋に「誰かのために」頑張っている時の我々の行為こそ該当しているのではないかと筆者は考えています。
西田はこのような「自己と他者を包むもの」というのは道元が説く「仏の命」のことであると述べ、『正法眼蔵』の「生死」巻の一節をながながと引用しています。
此生死は即ち仏のお命なり。これを厭ひ棄てんとすれば即ち仏のお命を失なはんとするなり。これに留りて生死に着すればこれも仏のお命を失ふなり。仏の有様を留むるなり。厭ふことなく慕ふことなき是時始めて仏の心に入る。ただし心を以て計ることなかれ。言葉を以て言ふことなかれ。ただ、吾身をも心をも、放ち忘れて仏の家に投入され、仏の方より行はれて、之に従ひもて行く時、力も入れず、心をも費やさずして、生死を離れ、仏となる。
親鸞が説く自然法爾の自然とは、自己自身の内(自己自身の底)に、どこまでも自己自身を否定したところにあらわれる自然であり、それこそが事に徹したものの見方であり、また道元が説く身心脱落と同一の精神であると西田は述べています。
生死は「仏の命」である。この言葉を聞くと、筆者は浄土真宗の僧侶の金子大栄氏の「花びらは散っても花は散らない。形は滅びても人は死なぬ。」という言葉が思い浮かびます。花びらのように、人の肉体もまた、やがて滅び行くものですが、その人は大切な時間を過ごした人達、尊敬してきた人や尊敬されてきた人、意志を継いでくれる人達の中で「花」として生き続けていることになります。一度散っても、姿形を変えて再び咲いた「花びら」、それは私達の中にもきっと咲いているはずです。