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【西田哲学】自覚Ⅰ ~西田の自覚、スピノザの神、フィヒテの事行〜

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『善の研究』において、西田は一切を純粋経験の発展・分化として考えました。しかしながら、純粋経験②=反省的思惟は、主観と客観が分裂した状態であり、現在意識に変わりないとは言っても統一状態を前提とする純粋経験とやはり異なります。

 

『自覚に於ける直観と反省』ではその点が考慮され、純粋経験の「自覚」という概念が導入されました。その「自覚」とは、主客未分の不断進行の意識「直観」と、この進行の外に立って翻ってこれを見た意識「反省」を内面的に結び付けるものです。逆に言うと、根源的な「自覚」の発展の契機として「直観」と「反省」があることになります。そんな「自覚」の根底には「絶対自由意志」が想定されました。

 

「直観」と「反省」の繰り返しを根本的に統一する「絶対自由意志」は、西田の自覚体系において最高次元にあり、従って我々がいかにしても対象化することができません。ちなみに、「直観」は『善の研究』における統一的状態としての純粋経験①のことであり、「反省」は『善の研究』における意識の分裂状態としての純粋経験②=反省的思惟の諸相であることが分かります。

 

そもそもこの「自覚」の思想は、西田の中で『善の研究』の頃から定まりつつあったようです。当初「統一的或者」等と呼んでいた存在がヨハン・ゴットリープ・フィヒテ(1762-1814)「事行」の概念を介して発展したものであることは西田本人が述べています。フィヒテは「自我」の行為(生み出す自我=行)と、その産物(生み出される自我=事)が完全に一つであるところの同一性を「事行」と呼んでいます。西田における「自覚(絶対自由意志)」とそれの二つの側面である「直観」「反省」の関係は、フィヒテの『知識学』における「絶対的自我(生み出す自我)」とその活動の二つの契機である「個人的自我(精神)」「非我(自然)」の相互の関係に対応していると思われます。フィヒテもまた絶対的自我の純粋活動すなわち「事行」から、その活動における二つの自己分裂的ないし自己限定的契機として「個人的自我」と「非我」を位置づけています。

 

このように、「個人的自我」の根底に「普遍的な精神」の活動を想定している点において、西田の「自覚」とフィヒテの「事行」は共通しています。しかしながら、フィヒテの「事行」で主体となるのは「絶対的自我」であるのに対して、西田の「自覚」では「超個人的な自覚(絶対自由意志)」ばかりでなく「個人的な自覚」の側面も含まれています。ここが西田の「自覚」とフィヒテの「事行」の決定的な相違点です。

 

 

その一方、西田哲学は、バールーフ・デ・スピノザ(1632-1677)の哲学との類似性もよく言われますね。スピノザにおいて、「思惟(精神)」「延長(物体)」「唯一実体である神」の二つの属性・様態になります。スピノザ哲学は「唯一実体である神」を自己にとって超越的な存在者としてでなく、内在的な存在者と考え、自己の側の絶対否定や自己滅却によって神への帰入を説きました。西田哲学もまた真実在である絶対無(神)個物(自己)の内なるもの、即ち内在的な超越者と考えてます。そして、我々個物側の自己否定を通して自身がそうした絶対無(神)の自己限定であることを自覚して行為すべきであることを説きます。スピノザと西田は共にこうした内在主義的な立場に立っているという点で共通しています。また、自己(個物)神(絶対無)の相即不ニ的な関係を説いている点でも共通しています。

 

しかしながら、両者の思想には明確な違いがあります。スピノザの神は完全性と永遠性を具備した無限の存在であり、我々個物(精神)とはあくまでその有限な様態・変状に過ぎません。スピノザの個物(精神)は自己を滅却させることで神(普遍)の中に埋没して、神(普遍)の中に自己を見ようとします。

 

逆に、西田の神(普遍)は不断に自身を否定することによって自身を表現(普遍からの個物の生起・権限)し、自身を形成して行く存在となります。その形成の担い手として各々の個物があり、個物側の自己否定には無限の創造性と自由が与えられています。西田の個物は自己の働きを普遍の自己限定作用と考え、神(普遍)の中に包摂されて、自己の中に神(普遍)を見ようとします。

 

「一即多・多即一」の立場の西田にとって、スピノザ哲学は普遍側の「一」に偏り過ぎていることになるでしょう。西田はスピノザ哲学を静的な実体の立場に立つ「主語主義の論理」の典型として、個物の自由で創造的な行為を否定する「無世界論」と批判しています。『スピノーザに於いて、全然、個物と云うものが否定されるに至った。時のない世界となった。スピノーザの哲学にはどこにも意志の自由を容れる余地がない。スピノーザはデカルトの実体を単に主語的方向にのみ徹底的に考えていった。而して彼は抽象的な静的基体に陥ってしまった。』と主張しています。西田の表現において、述語的統一とは一つの円(同じ場所)を意味しますが、主語的統一は一つの点(統一点)になります。

 

西田哲学は普遍的な面ばかりでなく、個別的な面もかなり強い哲学であることが分かります。次回の【西田哲学】シリーズは、ルネ・デカルト(1596-1650)やイマヌエル・カント(1724-1804)の哲学と西田哲学を一緒に見ていきたいと思います。

【西田哲学】純粋経験Ⅱ ~自愛と他愛、自己の満足とは愛する者の幸福や属する社会の満足によってある~

今回は下記の記事の続きになります。

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西田幾多郎は『善の研究』第二編の末尾において、「自愛」「他愛」について説いています。

数理を解し得ざる者には、いかに深遠なる数理も何らの知識を与えず、美を解せざる者には、いかに巧妙なる名画も何らの感動を与えぬように、平凡にして浅薄なる人間には神の存在は空想の如くに思われ、何らの意味もないように感ぜられる、従って宗教などを無用視している。真正の神を知らんと欲する者は是非自己をそれだけに修錬して、これを知り得るの眼を具えねばならぬ。かくの如き人には宇宙全体の上に神の力なる者が、名画の中における画家の精神の如くに活躍し、直接経験の事実として感ぜられるのである。これを見神の事実というのである。

上来述べたる所を以て見ると、神は実在統一の根本という如き冷静なる哲学上の存在であって、我々の暖き情意の活動と何らの関係もないように感ぜらるるかも知らぬが、その実は決してそうではない。曩にいったように、我々の欲望は大なる統一を求むるより起るので、この統一が達せられた時が喜悦である。いわゆる個人の自愛というも畢竟此の如き統一的要求にすぎないのである。

然るに元来無限なる我々の精神は決して個人的自己の統一を以て満足するものではない。更に進んで一層大なる統一を求めねばならぬ。我々の大なる自己は他人と自己とを包含したものであるから、他人に同情を表わし他人と自己との一致統一を求むるようになる。我々の他愛とはかくの如くして起ってくる超個人的統一の要求である。故に我々は他愛において、自愛におけるよりも一層大なる平安と喜悦とを感ずるのである。而して宇宙の統一なる神は実にかかる統一的活動の根本である。我々の愛の根本、喜びの根本である。神は無限の愛、無限の喜悦、平安である。

『善の研究 第二編 第十章 実在としての神』より引用

 

個人の自愛とは個人的自己の統一を求める要求であり、全ての欲望というのは個人的自己の統一という大なる統一を求めており、こうした統一の要求が満たされたときに我々は喜悦を感じると、西田は説きます。

そうであるならば、我々の精神は本来無限なものであるから、個人的自己の統一で満足するはずもなく、より一層大なる統一を求めるようになります。より一層大なる統一の要求は、自己と他者を包含したものとなります。このような超個人的な統一への要求が他愛です。即ち、我々は自愛ではなく他愛において本来の大なる自己(真の自己)に還るのであり、宇宙の根源的統一力である神に帰することができます。そこに我々は一層大なる心の平安を得ることができると、西田は説きます。例として、古代インド哲学の梵我一如の思想が挙げられています。

 

これは社会的意識と異なる点であるが、脳という者も決して単純なる物体でない、細胞の集合である。社会が個人という細胞に由って成っていると違う所はない。
かく社会的意識なる者があって我々の個人的意識はその一部であるから、我々の要求の大部分は凡て社会的である。もし我々の欲望の中よりその他愛的要素を去ったならば、殆ど何物も残らない位である。我々の生命欲も主なる原因は他愛にあるを以て見ても明である。我々は自己の満足よりもかえって自己の愛する者または自己の属する社会の満足によりて満足されるのである。元来我々の自己の中心は個体の中に限られたる者ではない。

『善の研究 第三編 第十二章 善行為の目的(善の内容)』より引用

 

「我々の欲望の中よりその他愛的要素を去ったならば、殆ど何物も残らない位」と西田は述べています。個人というものが生まれるには、個人が生まれる地盤となる環境がなければなりません。自己と他者は同じ環境から生まれ、同じ根源的統一力である神(一般者)の外延として於いてあることになります。即ち、自己の満足とは、自己の愛する者の幸福または自己の属する社会・環境の満足によってあるのではないかということです。確かに、大金が手に入ったとしても、孤独だと幸福は感じられないと思いますし、手にした大金が活かせる社会・環境が無ければ意味がありませんからね。

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60兆個の細胞は赤血球などの特殊な細胞を除き、全て同じDNAを内部に持っており、細胞の種類が異なっていても、それは使用している遺伝情報が異なるだけで、どの体細胞も再度DNAを全て使えるような状態に戻すことができれば、理論上は受精卵の万能性を復活できるのです。

細胞を例えに出したきた点は流石、西田幾多郎だと思いました。

細胞は各々の任務を全うし、個体(全体)の生命を支えています。そして、それが結果的に自身と仲間の命を支えることになっています。

 

○我と汝

『善の研究』を含め、初期・中期前半の頃の西田哲学は、「自己と自己の根源(神)」の相互関係という二極構造と言われています。ただし、最初の頃から既にセーレン・キルケゴール(1813-1855)における自己(単独者)と神という二極構造とは完全に異なることが分かります。キルケゴールによると、神は自己に向かって一人で来いと呼びかけており、それに応じるために自己は神以外の他者と接点を持たない孤独の単独者であることが必要でした。それが神と出会うこと・神の前に立つことであるとキルケゴールは理解して、レギーネとの婚約を破棄しました。

 

一方の西田は特に『無の自覚的限定』以降(西田哲学中期後半)、現実の世界は多数の人格的自己(個物)が相互に応答し反響しあう世界であるとし、いわばキルケゴールが切ったものを繋ぐような方向に進んでいったと言えるでしょう。人格的自己同士である我と汝「我と汝と絶対無(神)」の相互関係という構造になっていきます。そこから更に進んで、「我と汝と環境と絶対無(神)」あるいは「我と汝と彼/彼女と絶対無(神)」といった多極構造となり、最終的には無数の個物同士あるいは無数の人格的自己同士の相互限定が即ち一般者(神・絶対無)の自己限定(自覚的限定)であるとする弁証法的世界となっていきます。

これは、絶対無の一般者の限定面として、これまで片隅に置かれていた個物に歴史形成者の役割があたえられていったことを意味します。個物は単に自己自身を限定するだけでなく、同時にまた自己自身を限定することで他者(他の人格的自己・環境・一般者)を限定し、また他者から限定されることで、それを成します。このように世界全体を表出すると共に世界全体の一構成要素である個物の特徴にはゴットフリート・ライプニッツ(1646-1716)の「モナドロジー」が、諸人格的自己の相互関係と全体的統一の思想にはイマヌエル・カント(1724-1804)の「目的の王国」が参考になっているのではないかと思われます。

【西田哲学】純粋経験Ⅰ ~個人の一生涯にわたる意識の連結と、個人と個人の意識との連結は同一である~

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西田幾多郎の哲学や思想は、このブログでも仏教哲学の解釈の際に大きく取り入れています。多元論的であるとともに一元論的であり、多元論と一元論という矛盾し合う要素が絶対矛盾的自己同一的に結合しているのが特徴となる西田哲学は仏教哲学を考えていく上で、とても参考になると筆者は考えているためです。そんな西田幾多郎の処女作『善の研究』は青空文庫で読むことができますね。

 

www.aozora.gr.jp

純粋経験には幾つかの段階・契機があり、哲学研究者の小阪国継氏の説を参考にまとめると次のような形になるかと思います。

 

純粋経験①:直接経験

原初的な純粋経験であり、主観と客観が未分離(主客未分)のまま統一されている状態です。反省的な知識でなく、直観的な知識です。直接経験の段階で、多くの人はこれを自覚せずに過ぎていくと思われます。

 

純粋経験②:反省的思惟

統一的な純粋経験が分化し、主観と客観が分離して対立し、意識に不統一がもたらされた状態です。具体的には、感覚や知覚、記憶や想像や抽象的概念などの反省的思惟、感情や意志などのあらゆる精神現象のことです。これら分裂状態も現在意識の流れには変わりないため、広義の純粋経験に含まれます。

 

純粋経験③:知的直観

こうした反省的契機、即ち分化や発展を通して意識は再び理想的な統一状態へともたらされます。知的直観の純粋経験であり、芸術的天才の神来(インスピレーション)の境地や宗教的達人の三昧(サマーディ)の境地が該当します。

 

※西田によると、①②③の純粋経験はいずれも「現在意識」という点で共通しているとのことです。現在意識とは、現在において働いている意識作用のことであり、一瞬一瞬の意識の連続のことでしょう。アメリカの哲学者のウィリアム・ジェームズ「意識の流れ」のようなものを指しているようです。

 

※このような現在意識は、それぞれ独立していると同時に相互に連結していることになります。即ち、個々の現在意識の背後・根底にはその本体となる普遍的な意識が考えられなければいけません。

 

純粋経験④:普遍的意識

個々の純粋経験の背後に存在し、それ自体一つの純粋経験である普遍的意識です。個人の一生涯にわたる意識の連続、及び個人間の区別(自他)を超越した全宇宙的な意識の連続のことです。西田が「統一的或者」「根源的統一力」「神」と呼んでいるものです。

 

○純粋経験の統一者(統一的或者)とは?

純粋経験④は「統一的或者=純粋経験の統一者=純粋経験の統一力=万物の統一力=宇宙の一定不変の理=精神と自然とを合一した者」等と様々な名称で登場しています。『善の研究』のすぐ後の著書では「動的一般者」と表現されます。どのようなものなのか?『善の研究』の中で説かれる内容を見てみましょう。

 

この統一的或者が物体現象ではこれを外界に存する物力となし、精神現象ではこれを意識の統一力に帰するのであるが、前にいったように、物体現象といい精神現象というも純粋経験の上においては同一であるから、この二種の統一作用は元来、同一種に属すべきものである。我々の思惟意志の根柢における統一力と宇宙現象の根柢における統一力とは直に同一である、たとえば我々の論理、数学の法則は直に宇宙現象がこれに由りて成立しうる原則である。

『善の研究 第二編 第五章 真実在の根本的方式』より抜粋

 

「純粋経験の統一者」等と表現されるものは、西田哲学における神であり、一種の汎神論的神であることが分かります。我々の主観と客観、即ち時間・空間・知情意・真善美・自然・社会・個体も全ての万物がこの純粋経験の統一者に包摂されています。

 

「先ず全体が含蓄的に現われる、それよりその内容が分化発展する、而してこの分化発展が終った時実在の全体が実現せられ完成せられるのである。一言にていえば、一つの者が自分自身にて発展完成するのである。」と西田が説くように、万物が自発的にそこから分化して生じ、そこに於いてあり、そこへと還元していきます。

 

意識の結合には知覚の如き同時の結合、連想思惟の如き継続的結合、および自覚の如き一生に亙れる結合も皆程度の差異であって、同一の性質より成り立つ者である。

意識現象は時々刻々に移りゆくもので、同一の意識が再び起ることはない。昨日の意識と今日の意識とは、よしその内容において同一なるにせよ、全然異なった意識であるという考は、直接経験の立脚地より見たのではなくて、かえって時間という者を仮定し、意識現象はその上に顕われる者として推論した結果である。意識現象が時間という形式に由って成立する者とすれば、時間の性質上一たび過ぎ去った意識現象は再び還ることはできぬ。時間はただ一つの方向を有するのみである。たとい全く同一の内容を有する意識であっても、時間の形式上已すでに同一とはいわれないこととなる。しかし今直接経験の本に立ち還って見ると、これらの関係は全く反対とならねばならぬ。時間というのは我々の経験の内容を整頓する形式にすぎないので、時間という考の起るには先ず意識内容が結合せられ統一せられて一となることができねばならぬ。然らざれば前後を連合配列して時間的に考えることはできない。されば意識の統一作用は時間の支配を受けるのではなく、かえって時間はこの統一作用に由って成立するのである。意識の根柢には時間の外に超越せる不変的或者があるといわねばならぬことになる。

人は皆宇宙に一定不変の理なる者あって、万物はこれに由りて成立すると信じている。この理とは万物の統一力であって兼ねてまた意識内面の統一力である、理は物や心に由って所持せられるのではなく、理が物心を成立せしむるのである。理は独立自存であって、時間、空間、人に由って異なることなく、顕滅用不用に由りて変ぜざる者である。

個人の意識が右にいったように昨日の意識と今日の意識と直ただちに統一せられて一実在をなす如く、我々の一生の意識も同様に一と見做みなすことができる。この考を推し進めて行く時は、啻に一個人の範囲内ばかりではなく、他人との意識もまた同一の理由に由って連結して一と見做すことができる。理は何人が考えても同一であるように、我々の意識の根柢には普遍的なる者がある。我々はこれに由りて互に相理会し相交通することができる。啻にいわゆる普遍的理性が一般人心の根柢に通ずるばかりでなく、或一社会に生れたる人はいかに独創に富むにせよ、皆その特殊なる社会精神の支配を受けざる者はない、各個人の精神は皆この社会精神の一細胞にすぎないのである。前にもいったように、個人と個人との意識の連結と、一個人において昨日の意識と今日の意識との連結とは同一である。前者は外より間接に結合せられ、後者は内より直に結合するように見ゆるが、もし外より結合せらるるように見れば、後者も或一種の内面的感覚の符徴によりて結合せらるるので、個人間の意識が言語等の符徴に由って結合せらるるのと同一である。もし内より結合せらるるように見れば、前者においても個人間に元来同一の根柢あればこそ直に結合せられるのである。

『善の研究 第二編 第六章 唯一実在』より抜粋

 

「個人と個人の意識との連結」があくまで文字や言語などの表現を介した外からの間接的(社会的)な統一(非連続の連続)であるのに対し、「一個人において昨日の意識と今日の意識との連結」は内からの直接的な統一(非連続の連続)であるという相違があります。実際に、我々は昨日の自分の思考感情は知り得ても、他者の思考感情を知ることはできません。しかし、絶対否定を介して相見るとこれらは本質的に同一となります。今日の自分という意識があるためには、昨日の自分という意識が必要であることは分かります。しかし、それと全く同じように、自分という意識があり続けるためには他者の意識が必要ということです。

 

西田が説く経験は、個人的・個別的なものであると同時に、普遍的・一般的なものでもあります。それは「個人あって経験あるにあらず、経験あって個人あるのである。個人的経験とは経験の中に於いて限られるし、経験の特殊なる一小範囲にすぎない。」という西田の言葉に表れています。純粋経験②は個々別々なものというのではなく、それらは純粋経験④という統一的或者の分化発展の諸相となります。純粋経験②は個人的経験であり、純粋経験④は普遍的経験であり、両者は有機体における全体と部分の関係のようになるかと思われます。純粋経験④は個人的意識の流れであると同時に、個人レベルを超越した宇宙的生命の流れでもあることになります。

 

西田の「純粋経験」とは主客未分の統一的な意識状態を単に意味するのみならず、同時に個体(純粋経験②)と全体(純粋経験④)との相即的状態をも意味していることになります。即ち、純粋経験①③④は同じ階層であることが分かります。「一即多・多即一」です。

【原始仏教】六神通Ⅰ 神足通・天耳通 ~一つになり、また多になる、多になり、また一つになる意成身の特徴が意味するところは?~

最初に、釈尊以前の古代インドの宗教的な背景について、復習になりますが。

西洋人と祖先を同じくするアーリア人がコーカサスの地を離れて東方に向かって遊牧の旅を続け、一部はイランに入り、他は西北インドからインダス河の上流五河地方を占拠し、定住しました。アーリア人は紀元前1200年頃までに「リグ・ヴェーダ」の宗教を成立させます。アーリア人が「リグ・ヴェーダ」の中で信じた神々は多神教であり、例えば自然神として、天神ディヤウス、太陽神スーリヤ、暴風神ルドラ、雷神インドラ(帝釈天)、未来神としてヤマ(夜摩・閻魔)などが挙げられます。

 

アーリア人は死者の王であるヤマの支配する楽土に達するために祭祀を実行しました。ごく初期のヴェーダの宗教では、地獄の観念はまだなく、人間は皆死ぬとヤマの「死者の国」に赴き、そこで完全な身体を得て永遠に生きると考えられました。そこには、先に去った先祖達が居て、子孫達はそこへ赴き、合同して共に楽しく快適に過ごします。その頃考えられていた死者の国は美味な食べ物に溢れ、沢山の樹木が心地よい緑陰を作り、絶えず涼しい微風が吹いている理想の楽園となっており、死者の国の王ヤマは温厚そのものでした。

 

しかし、楽園である死者の国で永遠に生きることができず、そこで再び死んだりしないだろうかとの恐れが徐々に出てきます。この世界での死よりも死後の死者の国での再死を恐れたアーリア人達はそこで再死しないで済む方法を求めました。そこから、生前にヴェーダの宗教で為すべきとされていることをきちんとやり、為すべからずとされていることをやらないことで再死を免れることができる、そうでないならば再死に至ると考えられるようになります。この頃から生前の行いが死後に影響するという因果応報の考え方が見られ、死後の天界への再生は必ずしも不死を保証するものではなくなっていきます。

 

その一方で、不死への追求からか、不死の霊魂=アートマンの考察が注目されるようになったと思われ、輪廻転生という死生観は瞬く間にインド全土に広まります。輪廻転生を信じることで、再死による魂消滅への恐怖は免れたものの、しかし、転生前と後では別人格であり、しかもあれだけ恐れた死を魂は形を変えて何度何度も体験する羽目に陥ってしまうのです。何か果たす目的があるから生まれ変わるというポジティブな面は薄く、結局、輪廻転生は苦と捉えられ、そこからの永久の脱却=解脱についても考察されるようになり、アートマンが本来はブラフマン(宇宙我)と同一であると覚ることで解脱ができる(不死が保証される)という梵我一如の思想へと繋がっていきます。

 

そもそも、「死者の国」という楽園で死後永遠に生きられると信じていたアーリア人が何故、そこでの再死を懸念するようになっていったのか?

筆者の私見になりますが、おそらく、楽=悪との考え方が強くなっていったからではないかと思うのです。これは日本においても言えることですが、本当に楽をすることは無条件に悪だと決めつけてよいものなのでしょうか?

例えば、快適な環境で仕事をした方が生産性も遥かに向上しますよね。更にはしっかり休めるから次に頑張れることもある、何のための楽なのかが重要なのだと思います。即ち、当時のアーリア人は「死者の国」をいわば生前の世界から切り離して永遠に遊んで暮らせる楽園環境のように考えたのが問題だったのだと思われます。仮に、「死者の国」へ赴き先祖の仲間入りした故人には地上の子孫達を守護する形で地上の創造活動を担っており、その守護活動を楽しく快適に成すための楽園環境だとしたら何も問題はなかったのではないかと筆者は思うのです。生人(子孫)と故人(先祖)の活動の調和の最根源こそブラフマン(アートマン)であり、如来法身(仏性・如来蔵)だと考えています。西田幾多郎が説くように、自己から世界を見るだけでなく、世界から自己を見る行為的直観の重要性が感じられます。

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前置きが長くなりましたが、ここから前回の記事の続きに入っていきます。

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この身を足の裏より上、頭髪より下の、皮膚を周辺とする、様々の不浄に満ちたものとして観察する。この身には髪・毛・爪・歯・皮、肉・筋・骨・骨髄・腎臓、心臓・肝臓・横隔膜・脾臓・肺、腸・腸管膜・胃・大便・胆汁・痰・膿・血・汗・脂肪、涙・脂肪油・唾・鼻水・間接液・小便があると観察する。

光明想を作意し、日想を執持し、「昼を夜のように、夜を昼のようにしよう。」と。このようにして、開かれて制限のなくなった心をもって光輝に満ちた心を修習する。この随念の状態はこのように修し、このように多修した者は智見の獲得に導かれる。

瞑想の似相である光明想(光の相)の安定性と明度を、更に清浄に研ぎ澄まし、身体内部の観照に励む修行者に次のような智見が生じることが「パーリ仏典 長部 沙門果経」に説かれています。

 

内観智(観照的智見)

このようにして、心が安定し、清浄となり、純白となり、汚れなく、付随煩悩を離れ、柔軟になり、行動に適し、確固不動のものとなると、修行者は智見に心を傾注し、向けます。そして、かれは「私のこの身体は色があり、四大元素から成り、母と父から生まれ、米飯と麦菓子で養われたもの、無常の、除滅の、摩滅の、破滅の、壊滅の性質のものである。しかも、私のこの意識はここに依存し、ここに付随している」と、このように知るのです。

それはまた、大王よ、美しい、純種の、八面体の、よく磨かれ、なめらかな、澄んだ、濁りのない、あらゆるすぐれた相のある瑠璃の宝石があり、そこに青か、黄か、赤か、白か、淡黄色かの糸が通されているとし、それを眼のよい人が手にして、「これは美しい、純種の、八面体の、よく磨かれ、なめらかな、澄んだ、濁りのない、あらゆるすぐれた相のある瑠璃の宝石である。そこに、この青か、黄か、赤か、白か、淡黄色の糸が通されている」と。観察するようなものです。

「パーリ仏典 第二期1 長部 戒蘊篇Ⅰ」片山一良 訳より引用

 

優れた智見によって、我々が執着して止まない肉体が透明化され、その内部に通される糸のようなものを見つけ出します。それが次に説かれる意成身だと思われます。

 

意成身(意から成る身体の分離)

このようにして、心が安定し、清浄となり、純白となり、汚れなく、付随煩悩を離れ、柔軟になり、行動に適し、確固不動のものとなると、かれは意から成る身体の創造に心を傾注し、向けます。かれはこの身体から、別の、色のある、意から成る、大小全ての四肢のある、欠けるところのない感覚器官を備えた身体を創造するのです。

それはまた、大王よ、たとえば、人がムンジャ草の茎を茎衣から引き抜き、「これはムンジャ草の茎である。これは茎衣である。ムンジャ草の茎と茎衣は別のものである。しかし、ムンシャ草の茎は茎衣から引き抜かれたのだ」と。このように考えるようなものです。あるいはまた、大王よ、たとえば、人が剣を鞘から抜き、「これは剣である。これは鞘である。剣と鞘は別のものである。しかし、剣は鞘から抜かれたのだ」と。このように考えるようなものです。あるいはまた、大王よ、たとえば、人が蛇を脱殻から引き出し、「これは蛇である。これは脱殻である。蛇と脱殻は別のものである。しかし、蛇は脱殻から引き出されたのだ」と。このように考えるようなものです。

「パーリ仏典 第二期1 長部 戒蘊篇Ⅰ」片山一良 訳より引用

 

意成身を創造すると表現されていますが、実際は意成身を肉体から分離するの意味のようです。剣と鞘、蛇と脱殻の例えが分かりやすいですね。中有(中陰)期間の我々は香を食す意味で香陰(ガンダルヴァ)と言われる状態になりますが、これこそが意成身の状態と言われています。

また、筆者独自の仏教観において、人は死後「自分が心から大切に想う人々」や「自分を心から大切に想ってくれる人々」の心の中を新たな家とする(在家の故人)と考えてますが、その時の状態も意成身に近いなと感じているのです。なぜなら、一身即多身であるからです(詳細は下記)。

 

神足通(様々な神変)

このようにして、心が安定し、清浄となり、純白となり、汚れなく、付随煩悩を離れ、柔軟になり、行動に適し、確固不動のものとなると、かれは、様々な神通に対して心を傾注し、向けます。そして、かれは種々のさまざまな神通を体験するのです。

すなわち、一つになり、また多になります。多になり、また一つになります。現れます。隠れます。まるで空中におけるように、傷害なく、壁を越え、垣を越え、山を越えて行きます。大地においてもまるで水中のおけるように出没し、水上でも沈むことなく、まるで地上におけるように行き、空中でも足を組み、まるで翼のある鳥のように進みます。あれほど大神力があり、大威力がある、あの月や太陽にも手で触れたり、撫でたりし、梵天界にまでも身を持って自在力を行使するのです。

それは、大王よ、たとえば熟練した陶工か、その弟子がよく調えられた土で、望み通りの陶器のみを作り、完成するようなものです。あるいはまた、大王よ、たとえば、熟練した象牙師か、その弟子がよく調えられた象牙で、望み通りの象牙細工のみを作り、完成するようなものです。あるいはまた、大王よ、たとえば、熟練した金細工師か、その弟子がよく調えられた金で、望み通りの金細工のみを作り、完成するようなものです。

「パーリ仏典 第二期1 長部 戒蘊篇Ⅰ」片山一良 訳より引用

 

神足通(様々な神変)については仏教学者の中でもとらえ方に諸説ありますが、筆者は物質次元で発揮されていたものではなく、物質的制約を受けない意成身が有する能力ではないかと考えています。

そして、最初に挙げられる「一つになり、また多になります。多になり、また一つになります」というのが意成身の重要な特徴を示しており、生前肉体を有している時は、自分の有する種子(業)だけが自身の肉体を作り出しているように人は感じるでしょうが、本来そこには他者の有する共相種子(共業)が関連している、一身かつ多身の意成身は物質的制約を取り払った身体本来の姿と言えるのかも知れません。身体(意成身も肉体も)は実際、こういった縁から成り立っていると考えられます。それがありのまま分かるのが意成身であり、ありのままには分からないのが肉体なのかもしれません。

 

そして、大神力・大威力がある月や太陽とは天体のそれらと考えるよりも、当時の人々が信仰していた太陽神スーリヤや月神チャンドラ等のことではないかと思います。梵天とは最高神ブラフマー(人格神の方?)のことです。このように圧倒的に凄い神々との接触も可能ということでしょう。

現代の日本人の我々にはピンと来ないので、十三仏との接触が可能と読み替えると分かりやすいかもしれません。本来であれば、死後の法要の際などに十三仏の仏国土(心)を訪れるところを、この神変を発揮できる域まで修行を進めることで生前に予め体験できるイメージでしょうか。

 

天耳通(天の聴覚力)

このようにして、心が安定し、清浄となり、純白となり、汚れなく、付随煩悩を離れ、柔軟になり、行動に適し、確固不動のものとなると、かれは、天の耳に対して心を傾注し、向けます。かれは、清浄にして超人間的な天の耳によって、遠くであれ、近くであれ、天と人間、両方の声を聞くのです。

それはまた、大王よ、たとえば、大道を行く人が大鼓の音も、小鼓の音も、法螺貝・シンバル・銅鑼の音も聞いて、「これは大鼓の音だ」とも、「これは小鼓の音だ」とも、「これは法螺貝・シンバル・銅鑼の音だ」とも、このように考えるようなものです。

「パーリ仏典 第二期1 長部 戒蘊篇Ⅰ」片山一良 訳より引用

 

こちらも意成身が有する優れた聴覚と思われ、神々(天)と人間の声を遠近関係なく聞くことができる能力です。

筆者独自の仏教観で言えば、ご先祖様と遺された家族友人等の声を聞く能力ですね。

 

続きは別の記事にて記載します。

【原始仏教】四神足(四如意足) ~神通力とは、「人と人の縁」や「人と法の縁」に直接通ずる力ではないか~

原始仏教の頃から「四神足(四如意足):欲神足・勤神足・心神足・観神足」という言葉が登場しています。不思議な力=神通力を発揮する瞑想を得るために不可欠な四要素と説明されますが、そもそもこの神通力というものをどのようにとらえたらいいのか…現代人は悩むところと思います。

しかし、仏教以外でも、例えばヨーガ学派の経典などでもごく普通に神通力が登場していますし、もしかすると古代インドの修行者の間ではごく身近なものだったのかも知れませんね。現代の日本人の多くがご先祖様を忘れてしまったように…

 

このブログでは、パーリ仏典で説かれる神通力の内容を紹介しつつ、神通力を「私達を取り巻くに触れる力」と独自に解釈して話を進めていきます(一般的な経典解釈と私見解釈を併記します)。

我々の目の前に広がる世界は、「人と人の縁(人間の情の繋がり)」「人と法の縁(自然の理の繋がり)」といった目に見えない不思議な力が具現化したものと考えられるわけです。両者は互いに「作るもの」と「作られたもの」の関係であり、互いが自己(自性)を否定して作用し合うそこに歴史や社会の流れは作られていきます。前者に直接触れるには優れた慈・悲・喜が、後者に直接触れるには優れた捨と智慧が必要になると思われます。最終的には両者の調和に触れることになるでしょう。

 

さて、「パーリ仏典 相応部 神足相応」に四神足について、次のような説明があります。

比丘たちよ、もし比丘が{意欲・精勤・心・観}に依って禅定を得るなら、すなわち心の一境性を得るなら、これが{意欲・精勤・心・観}に依る禅定です。

比丘が未だ生じていない悪・不善が生じないために{意欲・精勤・心・観}を生じ、勤め、精進し、心を励まし保持するなら、

また、既に生じた悪・不善を捨てるために{意欲・精勤・心・観}を生じ、勤め、精進し、心を励まし保持するなら、

また、未だ生じていない善が生じるために{意欲・精勤・心・観}を生じ、勤め、精進し、心を励まし保持するなら、

また、既に生じた善を確立するため、忘れないため、増やすため、大きくするため、繰り返し修習するため、円満にするために、{意欲・精勤・心・観}を生じ、勤め、精進し、心を励まし保持するなら、

これが勤め行うことです。それゆえ、これが{意欲・精勤・心・観}です。これが{意欲・精勤・心・観}に依る禅定です。これが勤め行うことです。比丘たちよ、これが{意欲・精勤・心・観}に依る禅定に基づいて勤めおこなうことを具備している神足です。

「ブッダの神通力 藤本晃 著」を参考

 

四神足の実践が、未だ生じていない悪(貪瞋惛掉疑・癡)を犯さないように勤め励む律儀断既に生じている悪(貪瞋惛掉疑・癡)を断つように勤め励む断断未だ生じていない善(慈悲喜捨・慧)を為すように勤め励む随護断既に生じている善(慈悲喜捨・慧)を増大するように勤め励む修断、という「四正勤」に基づいて行われることが分かります。即ち、ここでの「欲」とは悪を断ち善を為す意欲であり、「勤」とは悪を断ち善を為す勇猛といった意志に属するものと考えられます。そして、「心」とは慈・悲・喜それ自体であり、「観」とは捨や智慧それ自体ではないかと思います。

このように考えているのですが、そんな重要な欲(意欲)神足、勤(精勤)神足、心神足、観神足の四神足について、具体的な説明がパーリ仏典内でも見受けられないのが残念なところです。四神足修習に至る原因と条件については次のようにパーリ仏典で説かれています。

比丘たちよ、私は以前、まだ等覚を現等覚していない菩薩であったとき、このように考えました。『どんな原因、どんな条件で神足を修習できるのだろうか』と。比丘たちよ、その私はこのように考えました。

{意欲・精勤・心・観}に依る禅定に基づいて勤めおこなうことを具備している神足を修習する際、私の{意欲・精勤・心・観}が減退しすぎないように、また、やりすぎにならないようにしよう。内に沈み込んで縮まないように、また、外に散乱しないようにしよう。

前後想を持つ者となり、前にあったように後のことを、後のことを前にあったようにしよう。下を上のように、上を下のようにしよう。昼を夜のように、夜を昼のようにしようと。このようにして、開かれて、制限のなくなった心をもって光輝に満ちた心を修習したのです。

「ブッダの神通力 藤本晃 著」を参考

 

順番に見ていきます。まず、意欲・精勤・心・観の力のバランスを整える(中道を歩く)必要性が説かれますが、そのバランスを乱す煩悩については下記のようになっています。

比丘たちよ、{意欲・精勤・心・観}が減退しすぎるとは何か。比丘たちよ、{意欲・精勤・心・観}が懈怠と一緒になります。比丘たちよ、これが{意欲・精勤・心・観}が減退しすぎるといいます。

比丘たちよ、{意欲・精勤・心・観}をやりすぎるとは何か。比丘たちよ、{意欲・精勤・心・観}が掉拳と一緒になります。比丘たちよ、これが{意欲・精勤・心・観}をやりすぎるといいます。

比丘たちよ、{意欲・精勤・心・観}が内に沈み込んで縮むとは何か。比丘たちよ、{意欲・精勤・心・観}が惛沈・睡眠と一緒になります。比丘たちよ、これが{意欲・精勤・心・観}が内に沈み込んで縮むといいます。

比丘たちよ、{意欲・精勤・心・観}が外に散乱するとは何か。比丘たちよ、{意欲・精勤・心・観}が外の五妙欲に惹かれて散らされます。比丘たちよ、これが{意欲・精勤・心・観}が外に散乱するといいます。

「ブッダの神通力 藤本晃 著」を参考

 

懈怠・掉拳・惛沈睡眠・外の五妙欲への貪瞋であり、僅かな違いはあれど五蓋(貪欲・瞋恚・惛沈睡眠・掉拳後悔・疑念)を違う角度から表したものでしょう。下記の記事における「十一煩悩」も参考にしてください。

hiruandon-desu.hatenablog.com

 

「前後想を持つ者となり、前にあったように後のことを、後のことを前にあったようにしよう」とは、上記の記事中において似相(光明=光の相)によって自身の後方を前方と同じように観照することではないかと思います。続く「下を上のように、上を下のようにしよう」には説明が経典内にあり、光明(光の相)による観照対象を外部から自身の肉体内部に移すことです。

この身を足の裏より上、頭髪より下の、皮膚を周辺とする、様々の不浄に満ちたものとして観察する。この身には髪・毛・爪・歯・皮、肉・筋・骨・骨髄・腎臓、心臓・肝臓・横隔膜・脾臓・肺、腸・腸管膜・胃・大便・胆汁・痰・膿・血・汗・脂肪、涙・脂肪油・唾・鼻水・間接液・小便があると観察する。

 

内観の智見の獲得です。そして、「昼を夜のように、夜を昼のようにしよう」とは光明(光の相)の光輝の増長です。

光明想を作意し、日想を執持し、「昼を夜のように、夜を昼のようにしよう。」と。このようにして、開かれて制限のなくなった心をもって光輝に満ちた心を修習する。この随念の状態はこのように修し、このように多修した者は智見の獲得に導かれる。

 

ここから神通力の話に入っていくのですが、光明で肉体内部を十分に観照できるようになった後に「意成身」を肉体と分離する話に繋がっていきます。意成身とは、イメージとしては霊体や幽体といったものです。中有期間に有情は香陰(ガンダルヴァ)と呼ばれる状態になりますが、その香陰も意成身です。

hiruandon-desu.hatenablog.com

本来であれば、死後に「香陰(祖霊)=筆者独自の仏教観における在家の故人」へなれた際に体験できる状態を、生前に体験しておくところからはじまる、そんなイメージです。パーリ仏典に登場する神通力(六神通)は、当時の古代インドでほぼ常識になっていたと思われる輪廻転生の思想に基づき説かれています。ご自身の死生観の中に輪廻転生思想がある方は、経典内の言葉がそのまま参考になるかなと思います。ご自身の死生観の中に輪廻転生思想がない方は、「人と人の縁」や「人と法の縁」といった目に見えないものの今の自分を成り立たせている縁の世界に深く触れていくイメージでご覧頂けると幸いです。