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大乗仏教 & 西田幾多郎の「逆対応と平常底」

 

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西田幾多郎の『絶対矛盾的自己同一』は晩年、特に「絶対矛盾的」部分を強調した『逆対応』、及び「自己同一」部分を強調した『平常底』に分節化される形で表現されるようになります。『逆対応』というのは絶対(神仏=弁証法的一般者)と相対(人間=個物)が相互に自己否定的に対応(作用)し合っていることを示します。西田が強い共感を示したセーレン・キルケゴールの思想も参考になっていると思われ、浄土仏教(特に浄土真宗)の信仰を理論的にしたと言われています。もう一方の『平常底』とは禅仏教の思想に由来しているとされ、最終的に我々の自己が、逆対応的に接している神仏(絶対一者=絶対無=自己の根源)に合一することです。

 

順番に見ていきます。まず、絶対というのは言葉の通り「対を絶ったもの」であるため、本来ならば他へ作用するということはありえず、仮にそうであるならば、その絶対なるものは相対に過ぎないものとなってしまいます。しかしながら、逆に如何なるものにも作用しないものは無であることに等しいものであり、真に絶対なものと言えないと、西田は考えました。如何なるものにも作用しない絶対とは、古代インドの大乗仏教 中観派の開祖であるナーガルジュナ(龍樹)が定義した『自性(スヴァバーヴァ)』そのものです。龍樹もそのようなものは存在しない(無自性空)と主張しています。龍樹の自性(スヴァバーヴァ)の定義については、仏教学者の梶山雄一氏が的確に次のようにまとめています。

自性とは他のものによって作られたものでないから自立的存在である。それは決して変化せず、生滅しないから恒常的存在である。そして、因果関係の分析の中に見られるように、自性は部分を持たないから単一的存在である。したがって、ナーガルジュナのいう自性とは、自立・恒常・単一な実在のことであることが分かる。

「それ自体不生不滅でも変化する本体」や「他に作用する本体=部分を持つ本体」というものがあってもよいではないか!?と龍樹に対して主張すれば、おそらく『それは本体と言えない』との反論が返ってくると思われます。西田がここで説く「自己」と龍樹が説く「自性(スヴァバーヴァ)」は定義が異なることが分かります。

 

※自性という言葉は、説一切有部や般若経典など、ナーガルジュナ以前から使われています。それぞれの学派において、定義が異なることに注意が必要です。西田の「自己」と同じような意味で用いられていることも多いです。また、サーンキヤ哲学にも自性(プラクリティ)という用語が登場しますが、ナーガルジュナの自性(スヴァバーヴァ)とは性質が異なるものです。

 

龍樹の自性(スヴァバーヴァ)に該当する「絶対」は無に等しい…そこで西田は『真の絶対とは対を絶ったものではなく、自己自身を否定すると同時に、その否定した自己自身である相対を内に含むものであり、その相対に作用(対応)する』としました。即ち、「相対(人間・衆生)」というのは「絶対(神仏)」の自己否定体の現れ(表現的自己)ということになり、神仏は自身の内に人間・衆生を含むことになります。西田が説く「真の絶対=真の神仏」は自身と真逆の性質を持つ、即ち悪性である人間・衆生にまで下って救うことができ、その救うことこそが神仏の「絶対の愛=大慈悲」でもあります。大乗仏教や密教では救う際における仏の状態や人格を、応身仏(色身仏・化身仏)や報身仏と言います。

 

そして、一方の作られた「相対」側もそのままでは、作る「絶対」側に作用することはできません。仮にそのまま作用できるのであれば、その相対は絶対であることになってしまうからです。こちらについても同様に、『相対は自己自身を否定すると同時に、その否定した自己自身である絶対に作用(対応)する』としています。相対(人間・衆生)側が、自らを常に死を包含して生きている存在であることを認める、即ち自己否定することで、絶対(神仏)との関係が築かれることになります。「個物的限定即一般的限定、一般的限定即個物的限定」と同様の構図ですね。

 

「自己自身を否定して他へ作用する」というのは、初期大乗仏典の一つである『金剛般若経』にて既に説かれています。諸説ありますが、仏教学者の中村元氏はこの『金剛般若経』が最も初期の大乗仏典でないかと考えているようです。確かに、この経典にはまだ「空」という言葉が登場していません。

{X}は{X}でないと如来によって説かれた。それだからこそ、{X}と言われる。

意味:(人々が{X}であると考える){X}は(真の){X}でないと如来によって説かれた。それだからこそ、(仮の){X}と言われる。

という文言が繰り返し登場します。鈴木大拙「即非の論理」と名付けたものですが、西田は相対(人間・衆生)側のこのような自己否定のみならず、絶対(神仏)側のこのような自己否定があるからこそ、人間は神仏と接することができるとしました。西田によれば、人間・衆生側の作用とその逆方向からの神仏側の作用は相互に対応し合っていて、人間・衆生の(自己否定的な)働きがあるところに同時に神仏の働きがあり、神仏の働きがあるところに同時に人間・衆生の働きがあることになります。

 

ところで、セーレン・キルケゴールの「神人論」は、西田も強い共感を示したとされます。キルケゴールが説く神人は、イエス・キリストのことであり、大工ヨセフの子であるイエス個人(一人の人間)が自己矛盾的に神であるということです(人間全てが自己矛盾的に神であるというわけではない)。しかし、西田が考える神人は逆に特定の一人の人間ではなく各個人(人間全て)となります。キルケゴールにとって、自己は自分自身に関係することにおいて同時に絶対他者(神)にも関係するため、両者は密接に関連し合ってはいるものの別々(別人格)の関係です。人はキリストに倣って生きなければならない、そこには神人からの呼び声が同時にあります。そのため、キルケゴールにおいて神人であるイエス・キリストは各個人の範例ということになります。しかし、西田においての神人は各個人の底(根源)であるため、神の呼び声というのは自己自身の底からの声ということになります。キルケゴールの場合、神から人への道はあるものの、人から神への道は道はありません。それに対し、西田は神から人への道は同時に人から神への道であることになります。

 

西田がキルケゴールの思想を巧みに読み替えていますが、そこには浄土真宗の開祖である親鸞の思想も参考になっているのではないかと考えられています。浄土経典の原点は古代インドにおいて初期の般若経典と同時期、『阿閦仏国経』に続いて登場した、阿弥陀如来による救いを説いた『仏説無量寿経・仏説阿弥陀経』であると考えられています。所謂、阿弥陀如来の浄土三部経は五濁悪世(末法の世)の衆生のために釈尊(釈迦如来)が阿弥陀如来による救いを説いたという内容になっています。釈尊入滅から500~1000年の後、教法が正しく伝わっていないため、修行者は自力で覚りを開けない末法の世がやってくる…この世が劣悪環境となってまともな修行すらできないならば、「阿弥陀如来の誓願に身を委ねて極楽往生を目指そう!阿弥陀如来の極楽浄土に生まれ、快適環境で修行して覚りを開こう!衆生を導こう!」というのが古代インドにおける浄土教の原点になります。厳密にいうと〈極楽往生=仏陀になる〉ではなく、そこで上求菩提・下化衆生の誓願を立て修行をするということです。

 

さて、ここで、五濁悪世の此岸側に阿弥陀如来へ救済を求める衆生(人間)の声があり、極楽浄土の彼岸側に衆生(人間)を救おうと呼び掛ける阿弥陀如来の声があることになります。相互に逆対応しており、此岸側からの救済を求める声が強ければ強いほどに、彼岸側から救済しようと呼びかける声も強くなります。即ち、親鸞が『歎異抄』において説く「善人なおもて往生を遂ぐ、況や悪人をや」の言葉通りとなります。阿弥陀如来の前において、人間は皆悪人です。悪人に該当しない人間はいません。ここでの善人とは、そんな悪人の中でも阿弥陀如来に救いを求めることなく、五濁悪世の世で頑なに自力で覚りを開こうとしている人達ということになります。即ち、この親鸞の言葉は、「救いを求めない善人(聖道門)でさえも救われるのだから、救いを求める悪人(浄土門)が救われるということは言うまでもない」といった意味になると思います。

 

仏教において、善悪という言葉は道徳的な意味で用いられる場合と、道徳の範疇を越えて用いられる場合があります。後者は善性・悪性の意味であり、善性は不生不滅の性質・悪性は生起消滅の性質のようなイメージです。人間の世間における道徳的な善は有漏善(煩悩に汚染された善)という悪性に含まれるケースが多く、それを超越した善性は無漏善として区別されます。ここはキルケゴールの思想とも重なる部分があると思われます。人間は存在自体が「死に至る病=絶望」に冒された罪人であると、キルケゴールは説きます。そのため、神と罪人の間には絶対的な断絶が存在します。しかし、罪人である人間は神との関係を築くことでその罪から解放され、人間として自己を得ることになるのです。神との関係を築くというのは、その人が神人(イエス・キリスト)を真に信仰することであり、それは、キリスト教会に所属するか否かは関係なしに単独者として神に対して生きていくことになるかと思います。

 

晩年の西田もキルケゴール同様に、人間は存在そのものが根本悪(悪性)であると説いています。しかし、神仏との逆対応関係が構築されることで、宗教的道が開かれて根本悪は解消されていく、即ち神仏の自己否定により、生来根本悪である人間は存在することができます。しかし、繰り返しになりますが、西田が考える神仏は「信仰の対象、帰依の対象としてのみの神仏」=超越的内在者ではありません。信仰・帰依の対象である神仏は、対象的でノエマ的方向の超越者(別人格である絶対他者)ですが、西田の神仏は非対象的で自己の根源(真の自己)というノエシス的方向の超越者(純ノエシス、内在的超越者)となります。真の自己という宗教的意識の境地において、臨済宗の開祖である臨済『臨済録』で説くように、人は「赤肉団上 一無位真人」(仏性・如来蔵)を覚ってそれに合一します。自己の根源に合一したその境地は絶対無の自覚に基づく弁証法的世界(行為的直観の世界)であり、「我(I)」と「汝(you)」と「彼(he)/彼女(she)」という人格的自己同士が非連続の連続として関わり合う「慈悲と智慧」の世界と考えられます。

 

西田の逆対応と平常底の理論を、阿弥陀如来に救われて極楽往生し、その後の修行で仏陀になるまでを対象にしていると仮定した場合、自身を五濁悪世から極楽浄土へと救ってくれた阿弥陀如来とは他者(仏陀となった法蔵菩薩の人格)のみを指すのではなく、同時に自己の根源でもあったことになると思います。即ち、一般的に阿弥陀如来は報身仏の代表として説明されますが、同時に法身仏でもあるということです。初期大乗仏典の一つである『華厳経』に登場する法身仏・盧遮那如来(仏陀となった普荘厳童子と釈尊を含む人格的自己同士)と報身仏・盧遮那如来(仏陀となった普荘厳童子の人格)の関係とまさに同じです。また、後期大乗仏教である密教において、法身仏・盧遮那如来は大日如来(大毘盧遮那仏)となり、そんな法身である大日如来は報身である四仏の統合体となります。インドの後期密教では金剛界五仏の中央(通常は大日如来の場所)に位置する中尊がしばしば交代し、阿閦如来や阿弥陀如来になったりもします(その際、大日如来は中尊から四仏の一尊として報身・毘盧遮那仏となる)。これは各衆生を導く阿弥陀如来などの報身仏達が、同時に各衆生達の自己本来の根源たる法身でもあることをわかりやすく示していると思います。

【補足】

法蔵菩薩:阿弥陀如来の前身。

普荘厳童子:盧遮那如来の前身。ただし、仏陀となった釈尊も盧遮那如来と呼ばれる。

 

かなり強引ではありましたが、人間存在は根本悪とする思想と人間存在の深層は本来清浄(根本善)であるという思想を何となく繋げることができたかなと思います。このように考え方によっては、西田の『絶対矛盾的自己同一』に由来する「逆対応と平常底」の思想は浄土仏教(浄土門)と禅仏教(聖道門)・密教を結ぶ理論にも成り得るのではないかと思います。

【原始仏教】八勝処と八解脱を四無量心の観点から考察

「八勝処」「八解脱」という言葉がパーリ仏典にも出てきますが、こちらもイメージがつきにくい説明文で解説されてあるかと思います。今回は、これらを「四無量心」の観点から筆者なりに考察していきます。

まず、最初に「八勝処」ですが、下記のようになっています。

八勝処

第一の勝処:

或る者は、内心に〈色〉の想いを抱き、外面的な〈色〉を、限られた僅かな好い色彩、悪い色彩のものと見なして、〈それらに打ち克って、我は知り、我は見る〉と、このような想いをなす。

第二の勝処:

或る者は、内心に〈色〉の想いを抱き、外面的な〈色〉を、限り無い好い色彩、悪い色彩のものと見なして、〈それらに打ち克って、我は知り、我は見る〉と、このような想いをなす。

第三の勝処:

或る者は、内心に〈無色〉の想いを抱き、外面的な〈色〉を、限られた僅かな好い色彩、悪い色彩のものと見なして、〈それらに打ち克って、我は知り、我は見る〉と、このような想いをなす。

第四の勝処:

或る者は、内心に〈無色〉の想いを抱き、外面的な〈色〉を、限り無い好い色彩、悪い色彩のものと見なして、〈それらに打ち克って、我は知り、我は見る〉と、このような想いをなす。

第五の勝処:

或る者は、内心に〈無色〉の想いを抱き、外面的な諸々の〈色〉を、青く、青色の、青い外観の、青い艶のものと見なして、〈それらに打ち克って、我は知り、我は見る〉と、このような想いをなす。

第六の勝処:

或る者は、内心に〈無色〉の想いを抱き、外面的な諸々の〈色〉を、黄色く、黄色の、黄色い外観の、黄色い艶のものと見なして、〈それらに打ち克って、我は知り、我は見る〉と、このような想いをなす。

第七の勝処:

或る者は、内心に〈無色〉の想いを抱き、外面的な諸々の〈色〉を、赤く、赤色の、赤い外観の、赤い艶のものと見なして、〈それらに打ち克って、我は知り、我は見る〉と、このような想いをなす。

第八の勝処:

或る者は、内心に〈無色〉の想いを抱き、外面的な諸々の〈色〉を、白く、白色の、白い外観の、白い艶のものと見なして、〈それらに打ち克って、我は知り、我は見る〉と、このような想いをなす。

『ブッダ最後の旅―大パリニッバーナ経』中村元 著を参照

 

これを「四無量心」の瞑想に置き換えて考えてみます。ブッダゴーサ著の『清浄道論』において、慈悲喜捨の各々の修習対象と順番は、慈と悲が「自己→親しい者→無関係者→嫌いな者」、喜が「親しい者→無関係者→嫌いな者」、捨が「無関係者→親しい者→嫌いな者」でした。

第一~第四の勝処における「好い色彩、悪い色彩のもの」というのがそれぞれ親しい者と嫌いな者に該当すると思われます。内心の「色の想いと無色の想い」の相違はおそらく、自己を対象とする段階かそれを超えているかの違いでしょう。

続く第五~第八の勝処では、好い色彩や悪い色彩といった諸々が青・黄・赤・白など一色となっており、即ち、親しい者・無関係者・嫌いな者の壁を破って近行定に入った段階を示しているのではないかと思います。

 

次に「八解脱」へ入っていきます。この「八解脱」は智慧の解脱・心の解脱を実現した最高境地の阿羅漢が修得するものであり、第一から第八の解脱の境地へ段階的ではあるものの自由自在に出入り可です。

八解脱

第一の解脱:

内心において〈色〉という想いを抱いている者が、外において〈色〉を見る。これが第一の解脱である。

第二の解脱:

内心において〈無色〉という想いを抱く者が、外において〈色〉を見る。これが第二の解脱である。

第三の解脱:

全てのものを〈浄らかである〉と認めていること。これが第三の解脱である。

第四の解脱:

〈色〉という想いを全く超越して、抵抗感を消滅し、〈別のもの〉という想いを起こさないことによって、〈全ては無辺なる虚空てある〉と観じて、〈空無辺処〉に達して住する。これが第四は解脱である。

第五の解脱:

〈空無辺処〉を全く超越して、〈全ては無辺なる識である〉と観じて、〈識無辺処〉に達して住する。これが第五の解脱である。

第六の解脱:

〈識無辺処〉を全く超越して、〈何ものも存在しない〉と観じて、〈無所有処〉に達して住する。これが第六の解脱である。

第七の解脱:

〈無所有処〉を全く超越して、〈非想非非想処〉に達して住する。これが第七の解脱である。

第八の解脱:

〈非想非非想処〉を全く超越して、〈想受滅〉に達して住する。これが第八の解脱である。

『ブッダ最後の旅―大パリニッバーナ経』中村元 著を参照

 

第一と第二の解脱は八勝処における段階と考えられます。そして、第三の解脱は浄解脱であり、四禅(色界の初禅~第四禅)の境地、そして四無量心における「慈心解脱」の境地です。(詳細は下記の記事をご参照ください)

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同様に、第四の解脱は「悲心解脱」、第五の解脱は「喜心解脱」、第六の解脱は「捨心解脱」に該当すると考えることができます。智慧の解脱とセットで語られる際の心の解脱とは、この四無量心を倶備した四無色定の修得を指すと思われます。

【原始仏教】仏教の瞑想法を四無量心の観点から考察Ⅲ

 

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前回の内容を簡単にまとめると、次のようになります。

 

とは「一切の有情は幸福であれかし。」などと念じ、利益と安楽をもたらそうと願うことです。似て非なる心情が貪欲・愛執であり、退治される心情が瞋恚です。慈を修して究竟すれば、浄解脱(四禅)に至ります。

とは「どうか一切の有情が、この苦しみから脱れますように。」などと念じ、不利益や苦しみを除去しようと願うことです。似て非なる心情が憂悲であり、退治される心情が害心です。悲を修して究竟すれば、空無辺処に至ります。

とは「実に尊い有情たちは喜んでいる。彼らは見事によく喜んでいる。」などと心に思って喜び、彼らが利益と安楽から離れないように願うことです。似て非なる心情が世俗的な喜悦であり、退治される心情が不快・嫉妬です。喜を修して究竟すれば、識無辺処に至ります。

とは「一切の有情はすべて等しく業を自己とする。何事も自己の業によって知られるであろう。」と苦楽を観察することです。似て非なる心情が世俗的な無智の無関心であり、退治される心情が瞋恚と貪欲です。捨を修して究竟すれば、無所有処に至ります。

 

無所有処定において、修行者は自己の想を有する者になり、そして想の頂点に立った者になることが「パーリ仏典 長部」のポッタパーダへの説法で説かれています。また、「パーリ仏典 相応部」で説かれる「七つの界」においても以下のように、無所有処界までが想定であるとされています。

○七つの界

比丘たちよ、これに七つの界があります。七つとは何か。光界、浄界、空無辺処界、識無辺処界、無所有処界、非想非非想処界、想受滅界です。比丘たちよ、これが七界です。比丘たちよ、この光界なるもの、この界は闇によって知られます。比丘たちよ、この浄界なるもの、この界は不浄によって知られます。比丘たちよ、この空無辺処界なるもの、この界は色によって知られます。比丘たちよ、この識無辺処界なるもの、この界は空無辺処によって知られます。比丘たちよ、この無所有処界なるもの、この界は識無辺処によって知られます。比丘たちよ、この非想非非想処界なるもの、この界は無所有処によって知られます。比丘たちよ、この想受滅界なるもの、この界は滅尽によって知られます。比丘よ、この光界なるものと、浄界なるものと、空無辺処界なるものと、識無辺処界なるものと、無所有処界なるもの、これらの界は想定として得られます。比丘よ、非想非非想処界なるもの、この界は行残定として得られます。比丘よ、この想受滅界なるもの、この界は滅尽定として得られます。

 

この七つ界についての詳細は説明されていないようですが、おそらく光界が近行定、浄界が安止定の四禅ではないかと筆者は考えています。仮にそうなると、浄界はに、空無辺処界はに、識無辺処界はに、無所有処界はに対応していることになります。

 

無所有処界は自己の想の頂点であり、一切の有情は等しく業を自己としており、等しく生きているとの平静・不偏な見方が得られます。「有情たちが経験する苦楽というものは自己の業によって知られるであろう」と、有情たちへ慈・悲・喜の情を抱きつつも、過度に流されることなく観察します。しかし、平静・平等な観察眼がありながらも各個体存在の在り方を、その者が有する自己の業にのみにしか見出せていない段階とも考えられます。言い方を変えると、自己と他者、自己の業と他者の業の間に明確な壁がある(自己の独立性が強すぎる)見方ではないかということです。

 

そこを超えた非想非非想処界は、自己の想が有るのでもなく、無いのでもないとう、自己の想についてはごく微細な状態です。しかし、それでも「有情たちが経験する苦楽というものは自己の業によって知られるであろう」と、自己の業のみ(行)が残っている状態です。

 

想受滅界はそれも完全に静まり、今自分が存在することができるのは自己の業だけではなく、他者の業や環境の業があるからだというからの観察眼が得られるのではないかと思います。このような縁の共同体における自分こそ真の自己と呼べるものであり、後の大乗仏教で登場する如来蔵・仏性(有垢真如)と如来法身(無垢真如)との思想、さらには唯識派で説かれる阿頼耶識縁起における共相種子という自他の縁に関わる種子(業)との思想はとても重要であると思います。

【原始仏教】仏教の瞑想法を四無量心の観点から考察Ⅱ

 

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上記の記事の続きになります。慈・悲・喜・捨の完成(終結)とは何か?について、今回触れていきたいと思います。

〇九次第定について

四無量心の話に入る前にまず九次第定について。安止定である四禅・四無色定・想受滅定は九次第定と言われますが、その九次第定について、パーリ仏典では次のような文章で登場することが多いかと思います。

○初禅

比丘は諸々の欲望を離れ、諸々の不善を離れ、尋(具体的思考)と伺(抽象的思考)があり、遠離より生じる喜と楽がある初禅を体得して住む。

○第二禅

比丘は尋と伺を静めているから、内心が清浄の、無尋・無伺の心統一より生じた喜と楽ある第二禅を体得して住む。

○第三禅

比丘は喜を静め、平静心となり、正念あり、正知あり、身に楽を感受し、聖者達が平静心を得、正念ある者は安楽に住む者であると説く第三禅を体得して住む。

○第四禅

比丘は楽を静め、苦を静め、以前に喜と憂を静めているから、不苦・不楽にして、平静心による思念の清浄という第四禅を体得して住む。

○空無辺処定

比丘は全ての色の想いを超え、諸々の有対(相対視)の想いを静め、種々の想いを作意しないから、『虚空は無辺である』という無辺なる虚空の領域の想いを体得して住む。

○識無辺処定

比丘は全ての無辺なる虚空の領域の想いを超え、『識は無辺である』という無辺なる識の領域の想いを体得して住む。

○無所有処定

比丘は全ての無辺なる識の領域の想いを超え、『如何なるものも存在しない』という無所有の領域の想いを体得して住む。

○非想非非想処定

比丘は全ての無所有の領域の想いを超え、『想いが有るのでもなく、無いのでもない』という領域の想いを体得して住む。

○想受滅定

比丘は全ての『想いが有るのでもなく、無いのでもない領域』の想いを超え、想と受を静めて住む。そして、智慧によって見て、煩悩が滅尽されたことを知る。

 

初禅に入った者は言語的活動(口行)が静まります。同じように、第二禅に入った者は言葉(口行)を形成する尋伺(具体的思考と抽象的思考)が、第三禅に入った者は喜悦が、第四禅に入った者は身体的活動(身行)を形成する粗い出息入息が静まります。続く四無色定において、空無辺処定に入った者は色に対する想いが、識無辺処定では空無辺処の想いが、無所有処定では識無辺処の想いが、非想非非想処定では無所有処の想いが静まります。最後の想受滅定では心理的活動(意行)を形成する想と受が静まり、貪欲・瞋恚・迷妄(無明)が滅尽します。

 

このように、何となくイメージがつきにくい四禅や四無色定ですが、慈悲喜捨の四無量心と大きく関係しています。

 

〇四無量心について

とは「一切の有情は幸福であれかし。」などと念じ、利益と安楽をもたらそうと願うことです。似て非なる心情が貪欲・愛執であり、退治される心情が瞋恚です。

とは「どうか一切の有情が、この苦しみから脱れますように。」などと念じ、不利益や苦しみを除去しようと願うことです。似て非なる心情が憂悲であり、退治される心情が害心です。

とは「実に尊い有情たちは喜んでいる。彼らは見事によく喜んでいる。」などと心に思って喜び、彼らが利益と安楽から離れないように願うことです。似て非なる心情が世俗的な喜悦であり、退治される心情が不快・嫉妬です。

とは「一切の有情はすべて等しく業を自己とする。何事も自己の業によって知られるであろう。」と苦楽を観察することです。似て非なる心情が世俗的な無智の無関心であり、退治される心情が瞋恚と貪欲です。

 

慈・悲・喜と捨は性質を異にするものであることが分かります。前者は「情」、後者は「理」に属する性質です。慈・悲・喜は情に流されて過度になってしまうといけないので、捨に帰して静まることで、四無量心として調和が保たれることになると思います。

 

〇四無量心と九次第定の関係について

「パーリ仏典 相応部 大篇 覚支相応」において、に因れば浄解脱(色界四禅)が、に因れば無色界の空無辺処が、に因れば無色界の識無辺処が、に因れば無色界の無所有処が最高の境地(終結・完成)として得られることが説かれています。

 

一切有情の幸福を願う慈に住む者は、有情の安楽を随観し、有情に好ましい遍浄色に対して、その心は専注します。慈は浄解脱(色界四禅処)を完成とします。(慈倶の四禅)

苦悩する有情の苦が消えることを願う悲に住む者は、色相のある有情の苦を随観し、色の過患をよく知るため、色から出離する虚空に、その心は専注します。悲は空無辺処を完成とします。(悲倶の空無辺処定)

喜んでいる有情が得られた幸福から転落しないことを願う喜に住む者は、喜びが生じている有情の識を随観し、自身に喜が生じるため、その心は虚空相を対象とする識に専注します。喜は識無辺処を完成とします。(喜倶の識無辺処定)

慈・悲・喜が帰して静まるところの捨に住む者は、有情は誰しも業を有し、その視点では等しく生きていると業自体を随観し、慈・悲・喜の過度を離れて調和が保たれているため、その心は識の無に専注します。捨は無所有処を完成とします。(捨倶の無所有処定)

 

このように、四無色定は四無量心を倶備して修められることで、倶解脱(心解脱と慧解脱)にも関わる重要な意味を持ってくるのではないかと思います。

【原始仏教】仏教の瞑想法を四無量心の観点から考察Ⅰ

仏教の瞑想(禅定)を検索すると、おそらく「四禅(または色界四禅)」「四無色定」のような用語がよくヒットするかと思います。パーリ仏典にもよく登場し、説明もありますが、いまいちイメージがつきにくい感じがあると思います。瞑想で得られた体験を何とか強引に言葉の形で表現しているのですから、無理もない話だと思いますが。

 

そんな四禅や四無色定ですが、慈悲喜捨の四無量心との関連があまり知られていないようですね。パーリ仏典相応部、清浄道論やアビダルマ論書にもほんの僅かにしかこのあたりが登場しないためかも知れません…。そこで、今回から数回に分けて、仏教の瞑想法を四無量心の観点から考察していきたいと思います。まず、今回は瞑想(禅定)に入る前の段階からです。

 

①取相

瞑想において、導入的な瞑想対象を業処といい、ブッダゴーサ著「清浄道論」では四十に業処がまとめられています。【地・水・火・風・青・黄・赤・白・光明・限定虚空】の十遍といった視覚対象に基づくものをはじめ、【慈・悲・喜・捨】の四無量心などもここに含められています。これらを修習すると自由にその影像が心の中に顕現しますが、これを取相が生じたといいます。おそらく、「ヨーガ・スートラ」では凝念(ダーラナー)と言われる段階と思われます。

四無量心はあくまで業処の一種として扱われていますが、次の段階で登場する五蓋{貪欲・瞋恚・惛沈睡眠・掉拳後悔・疑念}という顕在煩悩の止息を考えると、これは必ず必要になってくるのではないかと筆者は考えています。

 

②近行定

取相を思い浮かべる修行に励み、次第に五蓋{貪欲・瞋恚・惛沈睡眠・掉拳後悔・疑念}を止息して、この近行定の状態となると初めて似相が生起します。似相は清らかな光明の集まりのようなものと言われます。

四無量心の瞑想では、平等心を得て自己・親しい者・無関係者・嫌いな者という壁を破ると同時に近行定へ入ることが「清浄道論」にて説明されます。この近行定は「ヨーガ・スートラ」における静慮(ディヤーナ)と言われる段階ではないかと考えられます。

 

③安止定

似相を保ち続けることに精進すれば、ついに安止定が得られて、初禅の状態になり、五自在(引転・入定・在定・出定・観察)の修習を熟練して、第二禅、第三禅、第四禅が得られます。四無量心の瞑想では、慈倶の初禅~第四禅と言われます。この安止定は「ヨーガ・スートラ」における三昧(サマーディ)と言われる段階と思われます。

五自在

・引転自在

禅定に入る直前、心はどのようになっていたか、禅定に入ってから心はどのように変わったのか。それらを順番に追って理解する能力を身に付けること

・入定自在

禅定に入りたい意欲が生じると、直に禅定に入ることができる能力を身に付けること

・在定自在

自分が望む通りの時間、禅定に留まることができる能力を身に付けること

・出定自在

禅定状態が自然に切れるのを待たずに、自分の定めた時間通りに禅定から出ることができる能力を身に付けること

・観察自在

禅定の内容と心の状態を観察して、禅定とはどういうものかと体験を客観的に振り返り理解していく能力を身に付けること

 

〇釈尊のアヌルッダ長老への瞑想指導

釈尊は十大弟子の一人、天眼第一のアヌルッダ(阿那律)へ次のように瞑想指導に行っていることが「パーリ仏典 中部」にて説かれています。おそらく、近行定の安定化から安止定への段階における指導と思われます。五蓋が心の不随煩悩(十一煩悩)として、似相が光の相と色の相として説かれています。

アヌルッダ:「尊師よ、ここに私共は怠ることなく、熱心に、自ら励み、住みつつ、光(の相)と諸々の色(の相)を見ることを認めます。しかし、私共はその光も、諸々の色を見ることもやがて消えます。しかし、その理由を洞察しておりません。」

釈尊:「私もさとりを開くよりも以前、菩薩であった頃は同様な困難と戦わねばなりませんでした。アルヌッダよ、そこで私はこのように考えました。私に{疑い・不思惟・沈鬱眠気・硬直・高ぶり・粗悪・過度の精進・過度の懈怠・欲求(渇愛)・多様な想・諸々の色に対する過度の観察状態}が生じた。しかもまた、これら十一煩悩のために私の定は没滅した。定が没滅すれば、光も、諸々の色を見ることも消える。それゆえ、私は再び私に十一煩悩が生じないように行おうと。」

「アヌルッダたちよ、そこで私は十一煩悩は心の不随煩悩であるとこのように知り、心の不随煩悩である十一煩悩を捨断しました。」

「アヌルッダたちよ、そこで私は怠ることなく、熱心に、自ら励み、住みつつ、光を認めましたが、諸々の色を認めませんでした。諸々の色を見ましたが、光を認めませんでした。それは終夜にも終夜終日にもわたりました。アヌルッダたちよ、そこで私はこのように考えました。私が色の相を思惟せず、光の相を思惟するとき光を認めるが、諸々の色を見ない。私が光の相を思惟せず、色の相を思惟するとき、諸々の色を見るが、光を認めない。それは終夜にも、終日にも、終夜終日にもわたりました。」

「アヌルッダたちよ、そこで私はこのように考えました。私の定が少量であるとき、私の眼は少量になる。そこで、私は少量の眼によって少量の光を認め、諸々の少量の色を見る。しかし、私の定が無量であるとき、私の眼は無量になる。そこで、私は無量の眼によって無量の光を認め、諸々の無量の色を見る。それは終夜にも、終日にも、終夜終日にもわたると。」

「{疑い・不思惟・沈鬱眠気・硬直・高ぶり・粗悪・過度の精進・過度の懈怠・欲求(渇愛)・多様な想・諸々の色に対する過度の観察状態}は心の不随煩悩であると、このように知り、心の不随煩悩である{疑い・不思惟・沈鬱眠気・硬直・高ぶり・粗悪・過度の精進・過度の懈怠・欲求(渇愛)・多様な想・諸々の色に対する過度の観察状態}が捨断されています。」

「アヌルッダたちよ、そこで私はこのように考えました。私には心の諸々の煩悩が捨断されている。さぁ、今から三種によって定を修習しようと。アヌルッダたちよ、そこで私は、尋のある伺のある定を修習しました。また、尋のない伺のみの定を修習しました。また、尋のない伺のない定を修習しました。また、喜びのある定を修習しました。また、喜びのない定を修習しました。また、楽と共なる定を修習しました。また、平静と共なる定を修習しました。しかも、『私の心解脱は不動である。これは最後の生まれである。もはや再生はないとの智見が生じました。』」

『パーリ仏典 中部(マッジマニカーヤ) 後分五十経篇Ⅱ』 片山一良 著を参照

 

筆者の私見も入るのですが、ここでの「光」の似相は四無量心の瞑想における「自己」に、「色」の似相は四無量心の瞑想における「親しい者・無関係者・嫌いな者」に該当するのではないかと思います。不偏の平等心が得られると「定」が安定するのですが、再び湧いてくる不随煩悩(五蓋)に崩されるため、これを克服しないといけないのでしょう。

 

◯光の相(心の光輝)

少光:瞑想に入った際の心の光輝により狭い範囲を対象に満たせること

無量光:瞑想に入った際の心の光輝により広大な範囲を対象に満たせること

汚染光:身体の粗悪(懈怠)、沈鬱眠気、掉拳後悔が十分に除かれていないので、心の光輝が薄暗いこと

清浄光:身体の粗悪(懈怠)、沈鬱眠気、掉拳後悔がよく除かれているので、心の光輝が明るく強いこと

 

◯四禅の修習

尋のある伺のある定(有尋有伺定):初禅の初段階

尋のない伺のみの定(無尋有伺定):初禅の次段階

尋のない伺のない定(無尋無伺定):第二禅~

喜びのある定:初禅~第二禅

喜びのない定:第三禅~

楽と共なる定:初禅~第三禅

平静と共なる定:第四禅~

 

ここでの釈尊は第四禅の話からいきなり解脱へ至ったかのような流れで説法が行っていますが、実際には第四禅から解脱までにはかなりの段階があります。実際、アヌルッダは次のような詩を残しているようです。

寂静にして、専一なる五支{喜の遍満・楽の遍満・心の遍満・光明の遍満・相の省察}をそなえている禅定に安息が獲得されたとき、わが天眼は清められた。

この詩の詳細は分からないのですが、おそらく喜の遍満=第二禅、楽の遍満=第三禅に該当すると思います。そして、心の遍満とは四無量心の完成(慈無量心の完成→悲無量心の完成→喜無量心の完成→捨無量心の完成)を意味し、光明の遍満は六神通の一つである天眼通を意味すると考えられます(六神通については別の記事で触れます)。