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西田哲学について

 

西田哲学

京都学派の創始者である西田幾多郎(1870-1945)は自らの禅体験をもとに、西洋哲学と仏教哲学をより根本的な立場から統合させようとしました。

 

自身の思想形成の糧として、彼が多くのものを西洋哲学から摂取したことは、著作の中で引用されている西洋の哲学者の名前を見ると一目瞭然です。そんな中でも彼に大きな影響を与え続けた西洋哲学者はおそらくライプニッツヘーゲルではないかと思われます。

現に、西田哲学は多元論的であるとともに一元論的であり、多元と一元という矛盾し合う要素が絶対矛盾的自己同一的に結合しているのが特徴となります。

 

個物は宇宙全体を表出すると共に宇宙全体の一構成要素であるという単子論的な思想はライプニッツモナドジーの影響が、もう一方の個物を一般者の展開・分化(自己限定)として、個物の根底には常に一般者があるとの考え方はヘーゲルの具体的普遍の影響がある点は間違いないでしょう。

 

しかし、西田は両者の思想を単純に結合させたというわけではありません。ライプニッツモナドが互いに影響し合わない予定調和の「窓のないモナド」であるのに対し、西田の個物は互いに相互限定し合う創造的な「窓のあるモナド」である点は大きく異なります。

 

また、ヘーゲルの普遍が個物へ発展する合目的的で、断絶を含まない連続的統一者であるのに対し、西田の一般者は個物を包摂する場所で、断絶的であると同時に連続的という非連続の連続的な統一者となります。何が異なってくるのかと言えば、ヘーゲルの場合、歴史の担い手は普遍であって、我々個物同士の自由意志による創造的行為が介入できません。

 

しかし、西田は逆に個物同士の創造的行為を重要視しており、個物は一般者に作られる一方で逆に一般者を作っていく、即ち個物と一般者が矛盾的自己同一的に結びつくところに歴史の形成があると考えます。

この考え方は先人達が築き上げてきた歴史的遺産(作られたもの)がそれを受け取った次世代の人達(作るもの)を発展させると同時に、その次世代の人達が歴史的遺産を発展させる世界を意味するでしょう。

そして、発展した歴史的遺産は次々世代へ受け継がれていくという流れです。この流れこそ、西田が説く歴史的生命の弁証法であると思います。私達の本質は、肉体でなく社会を身体とする歴史的生命と言うべきでしょうか。

 

 

さて、西田哲学の一般者は、「絶対無の場所(純ノエシス)」「弁証的一般者」「行為的直観」とも表現されます。その弁証法的一般者の自己限定とは、「個物的限定」と「一般的限定」を媒介します。

 

個物的限定とは、個物と個物(私と汝)との相互限定です。無数の個物(個人的自己)同士が相互に否定即肯定的(自己を否定し合うと同時に他を肯定し合う)に限定し合うことで「人格的自己」となり、それは同時に一般者(弁証法的一般者)が自身をノエシス(志向作用・主観・述語・精神)的方向に自己限定(円環的限定)することを意味します。それは一般者が個物と個物の相互限定を媒介したとも言い換えることができます。

 

一般的限定とは、一般者(弁証法的一般者)が一般者としての自己を否定し、ノエマ(志向対象・客観・主語・物質)的方向に自己限定(直線的限定)することであり、個物(個人的自己)を個物(個人的自己)として限定することを意味します。即ち、個物と個物(私と汝)とは相互に自己を肯定し合うと同時に他を否定し合う形になり、個物同士(私と汝)の相互限定は抑制されることになります。それは永遠の今の自己限定として、我々一人一人の時間が成立します。

 

要するに、「個物的限定とは個物が個物としての自己を否定し、ノエシス的方向に自身(個物)と一般者を限定する」、「一般的限定とは一般者が一般者としての自己を否定し、ノエマ的方向に自身(一般者)と個物を限定する」ということです。

 

特に後期の西田哲学においては、このように個物と一般者を対にする際の個物を単に個人的自己のみを考えるのではなく、「我=I」と「汝=you」と「彼=he/彼女=she」の三者(無数の個物)を示すとイメージした方が分かりやすいです。西田はノエシス的方向に進むほどに、深い底へと表現します。そこで表面方向、即ちノエマ的方向ほどに「我=I」と「汝=you」と「彼=he/彼女=she」を結ぶものはなく、互いに絶対的な他者であり、不連続と言えます。

 

しかし、逆に底方向、即ちノエシス的方向ほどに三者は自己の底に他者を直接見出し、理解して受け入れることができる、即ちノエマ的な不連続は連続へと転じます。このように「我と汝」、「個物と一般(世界)」など、我々が自己矛盾するものへ働きかけ、相手の身となることを可能とする「弁証法的一般者」は「行為的直観」とも言われます。

 

諸々の個物が働き合う集合体が行為的直観の世界であり、個物は行為的直観の世界に於いてある個物です。非連続であると思われる「我=I」と「汝=you」と「彼=he/彼女=she」なる諸々の個物は行為的直観の世界に於いてあるからこそ連続すると言え、真の自己とは個人的自己の側からだけでなく、世界の底(行為的直観の世界)からも考えられるべきものとなります。

 

この弁証法的一般者(世界の底)の立場こそが西田哲学が考える神仏になると考えられます。即ち、西田の考える神仏とは単なる信仰の対象、帰依の対象である段階にとどまりません。信仰・帰依の対象である神仏はノエマ的な超越者です。彼の考える神仏は非対象的で自己の根源というノエシス的方向の超越者であるため、究極的に合一できます。この構図はインドのウパニシャッド哲学で説かれる梵我一如と同じです。

 

西田の仏教理解は、臨済の『臨済録』や親鸞の『歎異抄』、更に中国華厳宗仏教といった中国~日本仏教が中心であり、インド仏教は射程に入っていないとの言い方もされます。しかし、上記の仏教はいずれも如来蔵系や唯識系の思想に基づくものであり、それらが網羅された西田哲学は西洋の哲学とインド仏教をつなぐ重要な思想であることに間違いないでしょう。

 

そのようなわけで、当ブログでは原始仏教の探求に西田幾多郎の思想を手掛かりに用いることもありますので、西田哲学に関心がある方も是非お楽しみください。