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仏教と量子論

仏教の思想は、よく現代物理学の量子論の考え方に似ているという意見も耳にします。そこで今回、そんな量子論の世界をあくまで哲学的な視点重視で見ていきたいと思います。

 

○粒子性と波動性

量子論が示す自然観の特徴をデンマークの物理学者ニールス・ボーア(1885-1962)は相補性という言葉で説明したと言われています。古典物理学において、1か所に存在する「粒(粒子)」と、存在が様々に拡がっている「波(波動)」は矛盾する概念ですが、量子論はこの2つの概念を、例えば同じ一個の電子(他の素粒子も同様)の中に見出しました(電子の二重性が発見されるより前に、ドイツの物理学者アルベルト・アインシュタインによって光子の二重性が発見されています)。

 

このように相容れないはずの2つの要素が互いに補い合って1つの事物や世界を形成しているという考え方を相補性と言います。電子が複数集まって波のように振る舞うのではなく、電子は1個だけで波のように振る舞うという意味です。この点から我々が知る水面の波や音波など、即ち現象としての波とは異なる異質な波であることが分かります。

 

この波は「物質波」または「ド・ブロイ波」ともいわれます。ただし、電子が粒と波の性質を同時に表すことはなく、我々が観測装置を用いて観測していないときは波のように振る舞い、我々が観測装置を用いて観測した途端に粒として発見されるとしか説明できない状態です。電子を観測する際には光を当てなければなりません。当てた光が電子にあたって反射して観測装置の検出部分に戻ってきてはじめて、電子を見る(状態を知る)ことができます。

 

我々の身の回りの物質、所謂マクロの物質には波としての性質がほぼ見られない理由として、マクロの物質は波としての性質が弱いためと考えられています。物質波の波長はその物質の質量(正確には質量×速度=運動量)に反比例します(アインシュタイン=ド・ブロイの関係式より)。即ち、物質波は波長が小さくなるほど、波の拡がりも小さくなり、より存在が1点に集中していることになります。逆に、波長が大きくなるほど、波の拡がりも大きくなります。

 

さて、量子論の創始者と言われる有名な物理学者達は「ミクロの物質を粒と同時に波としても考え、その振る舞いを理解しなければならない」点には全員大いに賛成したようですが、その次の段階、即ちコペンハーゲン解釈に賛成するか、しないかで立場が分かれてしまいます。

 

○コペンハーゲン解釈

ボーア達が提唱したコペンハーゲン解釈によると、観測装置によって観測されていないときの電子(ミクロの物質)は波のように拡がり、それは重ね合わせの状態(スーパーポジション)にあるとし、ある場所にいる状態と他の様々な場所にいる状態が重ね合わさっていると考えました。そして、観測者が観測装置を用いて観測した瞬間に電子は1点に収縮して、ある1か所で発見され、どの位置に収縮するかは(ボルンの規則に従って)確率で決まるというものです。

 

このように物質波は観測されないのだから(我々が発見できるのは収縮して粒子となった状態のみである)との意味で、実在しないの(非実在性)であると実用性のみを重視し、それ以外には目を瞑る大胆な考え方ともいえます(存在とは何か?という課題が隅に置かれた感じです)。逆に、量子論の創始者メンバーの中でこの解釈に反対した物理学者達は物質波を実在の波と考え、人間(主観)の観測に左右されない客観的事実はあると信じていました(しかし、アラン・アスペの実験によりコペンハーゲン解釈側に軍配が上がることになります)。

 

ところで、ボーア達はミクロ世界とマクロ世界を分けて考えました。スーパーポジションや波の収縮はミクロの物質に限られるものであり、通常我々が経験するマクロ世界はあくまで古典物理学の範疇であるとし、非実在性の対象外と考えたのです。ミクロの現象をマクロの観測装置が観測したときに波の収縮が起きるため、マクロの物質は対象外ということですが、この説はミクロの世界とマクロの世界が分離されているという前提のもとで、観測装置について新たな仮説を持ち込んでいるに過ぎないようにも感じられます。

○マクロ世界(古典物理学)

客体に影響を与えることなく、主体は客体を観察することが可能。即ち、物質の位置や運動量などの状態(客体の状態)はただ1つの値に決まっており、未来の状態は現在の状態に基づいて機械的に決まる。{主体:マクロ、客体:マクロ}

○ミクロ世界(コペンハーゲン解釈)

主体が観測装置を用いて観測することで、客体の状態が決まる。主体は物質の状態を1つに確定できず、未来には複数の可能性がある。どれが実現されるのかは確率的に決まる。{主体:マクロ、客体:ミクロ}

 

ミクロの物質が集まってマクロの物質を作り上げている以上、ミクロ世界とマクロ世界は分離せずに連続した1つの世界にあると考える方が自然で、この点はコペンハーゲン解釈に反対した物理学者達も指摘しています。即ち、ミクロの世界の現象とマクロの世界の現象が連動するようなケースをどう考えるのかということです。波動方程式を発見して量子力学の発展に貢献したオーストリアの理論物理学者エルヴィン・シュレーディンガー(1887-1961)が思考実験「シュレーディンガーの猫」で指摘した内容が有名ですね。

 

○シュレーディンガーの猫

この思考実験では、まず蓋のある鉄製の箱の中に、生きた猫・放射性物質・放射線の検出器・検出器に連動した毒ガス発生装置を入れます。放射性物質が原子核崩壊を起こして放射線を放出すると、放射線検出器が反応し、それに連動して毒ガス発生装置が毒ガスを発生させる仕組みです。したがって、放射線が出れば猫は死に、出なければ猫は生き残ります。残酷な実験ですが、あくまで思考実験であり、シュレーディンガーが実際にこのような実験を行ったわけではありません。

【前提】

・外からは決して箱の内部を伺い知ることはできない 

・この猫は鳴き声や音を出さず、箱の中の装置を壊したりしない

・この放射性物質が1時間以内に原子核崩壊を起こす確率は50%

・原子核崩壊で放射線が出ると、確実に毒ガスが発生して、確実にこの猫は死亡してしまう

 

さて、1時間が経過したとき、蓋を閉めたままの箱の中の猫の状態をどう考えるかという問題です。放射性物質から1時間以内に放射線が出るかどうかはミクロの世界=量子力学的なプロセスに従うため、確実に予測することはできません。放射性物質が原子核崩壊を起こして放射線を出したか、そうでないかが分かるのは、蓋を開けて猫の生死を観測したときです。1時間以内に放射線が出る確率は50%であるため、量子論では観測前の放射性物質の状態について、「原子核崩壊を起こした状態」と「原子核崩壊を起こしていない状態」が半分ずつ重ね合わさっている(スーパーポジション)と考えます。猫が生きている確率も50%、即ち、箱の蓋を開けて観測するまでは生きているとも死んでいるとも言うことができます。生と死が半分ずつの割合で重ね合わさっていると解釈せざるを得ません。普通に考えて、蓋を開ける前から猫は生きているか、死んでいるかのどちらかです。シュレーディンガーはこの思考実験で、コペンハーゲン解釈の考え方は変だと指摘しています。

 

〇エヴェレットの多世界解釈

物質波の波が観測によって収縮するというのはあくまで、コペンハーゲン解釈の立場での意見です。物質波の波は収縮せずに拡がったままではないのかという考え方からアメリカの物理学者ヒュー・エヴェレット(1930-1982)による「多世界解釈」も登場しました。コペンハーゲン解釈では、観測前の電子は様々な場所にいる状態が重なり合っていると考えていますが、多世界解釈では電子が様々な場所にる世界が重なるように同時並行的に存在しており、観測者自体も同時にそれぞれの世界に枝分かれして存在するとします。しかし、枝分かれしたそれぞれの世界の観測者は自身がどの世界に来ているのかは、電子を観察するまで分かりません。

 

○マクロ世界(古典物理学)

客体に影響を与えることなく、主体は客体を観察することが可能。即ち、客体の位置や運動量などの状態(客体の状態)はただ1つの値に決まっており、未来の状態は現在の状態に基づいて機械的に決まる。

 

○ミクロ世界(コペンハーゲン解釈)

主体が観測装置を用いて観測することで、客体の状態が決まる。主体は客体の状態を1つに確定できず、未来には複数の可能性がある。どれが実現されるのかは確率的に決まる。観測前の客体は様々な場所にいる状態が重なり合っていると考える。

※客体の外に主体を置く(ミクロ世界とマクロ世界を分けて考え、非実在性が適用されるのはあくまでミクロ世界のみ)

 

○ミクロ世界(エヴェレット解釈)

主体が観測することで、主体自身がいる世界が分かる。主体も客体も、未来(先の世界)には複数の可能性がある。どの世界へ行くのかは確率的に決まる。観測前の客体は、それが様々な場所にいる可能性世界が重なり合うように同時並行的に存在しており、観測者自体も同時に可能性世界の中に重なり合うように同時並行的に存在していると考える。

※客体の中に主体を置く(ミクロ世界とマクロ世界を分けて考えず、観測者を更に客観的に観測する者の視点では、両者に非実在性が適用される)

 

多世界解釈(エヴェレット解釈)では、いつ波の収縮が起きるのか?ミクロとマクロの境界はどこか?といった問題は発生せず、論理的にとても優れているのですが、あまりにも我々の常識からかけ離れているため、当時は支持する物理学者も少数派だったようです。しかし、近年では支持する物理学者も増えてきているようです。

 

○仏教の刹那滅の思想

多世界解釈に基づけば、瞬間瞬間に我々は次の世界へと移動していることになります。このような考え方は近代西洋哲学においてよく見られますが、仏教でも刹那滅という理論が既にありました。この理論自体は仏教の全ての学派が承認するものですが、特に経量部説一切有部から派生した学派)が最も強力に推進しました。

・全ての存在は心(主体)も物(客体)も生起した瞬間に消滅する。

・一瞬前の存在が原因となって、次の瞬間の存在という結果を生ずる。

・この因果の流れは続くけれども、原因と結果とは同一の存在ではない。いわば、全てのものは各瞬間に別のものとして生まれ変わって続いてゆく流れであって、そこに同一性を保って永続する本体はない。

という理論です。

経量部によると、例えば人は現在の一瞬に存在しているだけで、昨日見たこの人も、明日また来るかも知れないこの人(同一人物)も実は存在しないことになります。人は一瞬一瞬異なった存在として生まれ変わっているからです。一人の人間は厳密にはただ一瞬間、現在においてのみ存在するだけで、過去や未来には存在しないということです。故に、昨日見た同じ人が、本日また来るというようなことはない、同一人物であるが、異なった二人の人であるということになります。

 

しかし、この存在の非連続な側面のみを強調する刹那滅の理論だけでは、なぜ我々に自我同一性があり、記憶情報が保持されていくのかという存在の連続な側面が説明困難となります。主体である観測者と客体の両方を客体として更に観測する視点を上手く導入したのが、大乗仏教の唯識派であると筆者は考えています。この点はおいおいお話できたらと思います。