上記の記事の続きになります。今回は「他心通」の話になりますが、同時に幾つも触れておきたい話がありますので、併せてお話します。
○西田幾多郎の「人格的自己」
西田幾多郎は、歴史的世界という本来の立場において、我々は常に三つの方向から自己を超越した存在の限定を受けていることを説いています。ただし、自己自身が限定を受けることが同時に他者を限定しています。このように本来の立場における我々を西田は「人格的自己:真の個物」等と表現しています。さて、自己を限定すると同時に限定される三つとは、①物(環境)、②汝(人格的自己・個物)、③超越的我(絶対無・一般者)のことです。①は「主体(個物)が環境を限定し環境が主体(個物)を限定する」ことです。②は個物と個物が相互に限定し合う「個物的限定」のことです。③個物的限定が即ち一般者の自己限定「一般的限定」であるところの「個物的限定即一般的限定・一般的限定即個物的限定」のことです。
〇自己の内に他者を見、他者の内に自己を見る ~西田の歴史的世界とイマヌエル・カントの目的の王国~
自己(我)と他者(汝)は絶対的に他なるもの、即ち非連続同士です。その根拠に我々は、自己の思考内容を知るようには他者の思考内容を直接知ることができません。しかし、西田はこのような状態の自己と他者を「意識的自己」とし、真の「人格的自己」とは異なるとします。真の人格的自己は他者を自己と同様に一つの独立した人格として認め、独立した人格として敬うところに成立するとします。独立した人格として認める・敬うとはどういうことでしょうか?
上記の記事の最後で自己も他者も「有情世間であると同時に器世間でもある」ことをお話しました。しかし、普段我々が認識している他者というのはあくまで「器世間」としてのみの他者となっているのではないでしょうか?自己は「有情世間」としてのみ、他者は「器世間」としての状態、これが西田の言うところの意識的自己の状態と思われます。本来は自己も他者も「有情世間かつ器世間」であり、ここの認識レベルに至ることで自己は他者の身体を生じさせる共業(共相種子)を有しており、同様に他者も自己の身体を生じさせる共業(共相種子)を有していることを同時に覚ることができるでしょう。これが他者を独立した人格として認める・敬う(真の)人格的自己と思います。
西田も、他者を独立した人格として認め、これを敬うということは、「自己の内に他者を見、他者の内に自己を見る」ということであると説いています。自己(我)は他者(汝)を独立した人格として承認することによって、自己(我)の内に他者(汝)を見、他者(汝)の内に自己(我)を見ることになり、自己(我)と他者(汝)は「非連続の連続」の関係にあります。西田は、「私は私の底を通して汝と出会い、また汝は汝の底を通して私と出会っている。」と表現します。所謂、「人と人の縁」ですね。この覚りが究極になった域に、『パーリ仏典』の頃から登場する「六神通」の「他心通」があるのではないかと、筆者は考えているのです。また、西田の「人格的自己と歴史的世界」の考えは、カントの「理性的存在者と目的の王国」の考えと共通していると感じました。カントはここに関して、「他者を手段として扱ってはならない!」と一言で決めてくれるでしょう。
○釈尊が説く「自己」を考察 ~真に自己を愛する人は他者を愛する人~
初期仏教においても、釈尊は倫理的な行為の主体としての自己を認めており、自己が善悪の行為主体であるからこそ、我々は真の自己を求めて修行に励み努めなければならないと説いたものと考えます。真の自己とはどのようなものでしょうか。
パーリ仏典 相応部 コーサラ国王パセーナディとの対話より:
だれでも身体によって悪行をなし、言葉によって悪行をなし、心によって悪行をなすならば、その人々の自己は護られていないのです。・・・しかし、だれでも、身体によって善行をなし、言葉によって善行をなし、心によって善行をなすならば、彼らの自己は護られているのです。・・・それは何故であるか。このように護ることは内面的であり、外面的に護ることではないからです。それ故に、彼らの自己は護られているのであります。
身について慎しむのは善い。言葉について慎しむのは善い。心について慎しむのは善い。あらゆることについて慎しむのは善いことである。あらゆることについて慎しんで恥じる人は<まもる人>と呼ばれます。
『ブッダ伝』中村元 著より引用
パーリ仏典 増支部より:
自己を護る人は他の自己をも護る。それ故に自己を護れかし。しからば、彼は常に損ぜられることなく賢明である。
『ブッダ伝』中村元 著より引用
パーリ仏典 小部 ウダーナより:
これらの人々は自我の観念に執着し、他我の観念に縛せられている。ある人々はこのことを知らなかった。またそれを〔束縛の〕矢であるとは見なかった。しかるにこれを矢であるとあらかじめ見た人には「われがなす」という念も起こることなく、「他人がなす」という念も起こることがない。
『ブッダ伝』中村元 著より引用
釈尊が説いていることは、カントや西田とも共通していることが分かります。真に自己を護ることは同時に他者を護ることでもなければならないということです。ここで護る自己は、一方が利益を得れば他方が損をしたり、自他が対立して相争ったりする相対的な自己同士ではありません。相対的な意味での自己や他者といった観念を超越したところの自己なのです。即ち、この自己を護ることが同時に他者を護ることになるのです。このような理想的な自己の実現のため、自我や我執の根源である煩悩を滅していく過程で身につく能力に、下記の「他心通」があると考えられます。
他心通(他者の心へ通ずる力)
このようにして、心が安定し、清浄となり、純白となり、汚れなく、付随煩悩を離れ、柔軟になり、行動に適し、確固不動のものとなると、かれは、他人の心を知る智に対して心を傾注し、向けます。かれは、他の生ける者達、他の人々の心を(自分の)心によって掴み、知ります。
すなわち、貪欲のある心を貪欲のある心であると知ります。あるいは、貪欲を離れた心を貪欲を離れた心であると知ります。
あるいはまた、瞋恚のある心を瞋恚のある心であると知ります。あるいは、瞋恚を離れた心を瞋恚を離れた心であると知ります。
あるいはまた、愚癡のある心を愚痴のある心であると知ります。あるいは、愚癡を離れた心を愚癡を離れた心であると知ります。
あるいはまた、萎縮した心を萎縮した心であると知ります。あるいは、散乱した心を散乱した心であると知ります。
あるいはまた、大なる心(禅定に入った心)を大なる心であると知ります。大ならざる心を大ならざる心であると知ります。
あるいはまた、有上の心(覚っていない心)を有上の心であると知ります。あるいは、無上の心(覚っている心)を無上の心であると知ります。
あるいはまた、安定した心を安定した心であると知ります。あるいは、安定してない心を安定してない心であると知ります。
あるいはまた、解脱した心を解脱した心であると知ります。あるいは、解脱してない心を解脱してない心であると知ります。
『パーリ仏典 第二期1 長部 戒蘊篇Ⅰ』片山一良 訳より引用
〇釈尊の四衆(比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷)
パーリ仏典 相応部より:
比丘たちよ、遊行しなさい。多くの人々の利益のため、多くの人々の安楽のため、世界への憐みのため、人・天の繁栄のため、利益のため、安楽のためにです。二人して一緒になって行ってはなりません。比丘たちよ、初めもよく、中間もよく、終わりもよい、内容もよく、形式もよい、完全無欠で、清浄な法を示しなさい。梵行を明らかにしなさい。汚れ(煩悩)の少ない生ける者達がいます。法を聞くことがないために衰退していますが、法をよく理解する者となるでしょう。
『ブッダのことば パーリ仏典入門』片山一良 著より引用
仏法は「自利」だけなく「利他」のためにもあります。自らが学んだ仏法で一体誰を助けるのか?出家して遊行生活に入る僧侶(比丘/比丘尼)の場合、それは「助けを必要としている人々(法を聞くことがないために衰退している人々)」になります。
在家の修行者であれば、例えば同居家族や友人のように身近な人々が助ける対象になると思いますが、いずれにしても学んだ智慧が慈悲の実践として活かされなければ、本当の意味で仏法を学んだことにならないということですね。
釈尊の説法の中に「二人して一緒になってはいけない」とありますが、これは「もしも慧者たる善友を得たならば、共に歩むがよい。そうでなければ独りで歩め。」との意味で説かれています。本当に信頼できる仲間ができたのなら一緒に歩んだ方がいいということですね。実際、同じ相応部に属する経典内で次のような説法があります。
パーリ仏典 相応部より:
善き友をもつこと、善き仲間のいること、善き人々に取り巻かれていることは、清浄行の全体である。善き友である修行僧については、このことを期待することができる。善き友、善き仲間、善き人々に取り巻かれている修行僧ならば、八つの正しい道を修めることになるであろう。そうして八つの正しい道を盛んならしめるであろう。
『ブッダ神々との対話』中村元 著より引用
釈尊が説く善友とは、「勝れた教法を説く慈悲の実践をする人」であり、具体的には「仏・法・僧」の三宝を指します。少しイメージしにくいですが、「心からありがとう」と感謝できる人のことでしょう。当時、釈尊が築いた四衆の社会は、カントの「目的の王国」や西田の「歴史的世界」のような社会を目指していたのかも知れませんね。