上の記事の続きになります。
仏教の輪廻説については様々な議論があります。パーリ仏典を見てみると、重要教義の中に当たり前のように輪廻説が取り入れられていることから、輪廻思想は仏教の核心とする意見がある一方で、あくまで当時の一般常識に合わせた方便で説かれたに過ぎないとの意見もあります。このように意見が分かれる原因の一つに「五蘊無我・五蘊非我」の思想があると思います。
輪廻は、前世で或る業(意思・行為)を為した当人が、来世でその果報を受けるという理論を前提としています。バラモン教における輪廻は転生の道途において自己同一性を保持させる「我(アートマン)」や霊魂を認める思想に基づくのに対し、仏教の無我思想はこれらの存在を認めません。そのため、アートマンや霊魂といった基体以外のところに業論を成り立たせる根拠(前世の意思・行為に由来する来世への影響力)を置く必要が出てきました。ただし、輪廻思想と無我思想の両立はかなり困難であり(善因楽果・悪因苦果なのに行為の責任を負う我がない矛盾)、これが釈尊は本来の立場として輪廻を認めなかったとする説が言われる理由の一つとも考えられます。しかし、釈尊入滅後の弟子達は輪廻思想を仏説(釈尊の本意)と理解し、この困難を解決すべく様々な理論を展開していくことになりました。
ここで「刹那滅論」の話に入っていきますが、先に下の記事で紹介したルネ・デカルトの「連続創造説」と共通点がかなり多いと思います。また、量子論の「エヴェレット解釈(多世界解釈)」にも類似しています。
◯刹那滅と縁起
仏教には刹那滅という理論があります。この理論は仏教の全ての学派が承認するものですが、特に部派仏教の経量部が最も強力に推進しました。全ての存在は心(主観)も物(客観)も生起した瞬間(刹那)に消滅すると説きます。そして一瞬前の存在が原因となって、次の瞬間の存在という結果を生じます。この因果の流れは続き、原因と結果とは同一の存在ではなく、全てのものは各瞬間に別のものとして生まれ変わって続いてゆく流れであるとします。そこに同一性を保って永続するアートマンはないという理論です。全く同じ人というのは現在の一瞬に存在しているだけで、昨日見たAと明日また来るかも知れないAは同一人物としては存在しないと説きます。人は一瞬一瞬異なった存在として生まれ変わっているため、同一人物とは、厳密にはただ一瞬間、現在においてのみ存在するだけで、過去や未来には存在しません。即ち、昨日見た同じ人が、本日また来るというようなことはなく、同一人物ながらも異なった二人の人となります。しかし、前の存在が原因となって後の存在が生じる以上、完全に同一とも別異とも言えない関係にあります。
我々は一瞬一瞬、死亡して新たに誕生していることになります(我々は刹那ごとに輪廻転生を繰り返しているということです)。通常我々が理解している人の死とは、母胎から生まれてその命根(寿命)の存続が断たれたときに訪れる個体の死のみを指しますが、刹那滅の理論において「個体の死」と「刹那の死」は同じになります。即ち、刹那滅論における輪廻転生とは解脱するまで永遠と続く絶えざる生成変化であり、その中にアートマンと呼べるものはないとします。それにも関わらず、我々はそのような実体があると誤解し、命根が尽きて再生する際に、アートマンがその同一性を保ったまま他の身体に移行する(他の世界・境涯へ赴く)と見なしてしまっているということです。
話がややこしくなるため、今回は中有期間を省いて話を進めていきます。(中有期間が対象になるのは天眼通になりますので、次回お話します。)
前生の生涯(個体A)において、Aの最後心(死心)に依存し、今生の「結生心」が転起して新たな身体に結びつくことでA'として新たな生涯を得ることになります。そのため、Aの最後心(最後識)が前生の身体から今生の身体へ移動するわけではありません。しかし、かと言って前生の業などの原因なくして今生に現れるわけでもありません。今生の結生心が次刹那に滅ぶと、それに応じた今生の「有分心」等が次々と刹那ごとに継起(心相続)し、その継起は命根が尽きる形での死(一般理解での死)をA'が迎えるまで継続します。その命根が尽きる前に正しい智慧を得て無明や渇愛といった煩悩を断たない限り、例えば火事の火が消火される瞬前に他へ転ぜられてしまうようにして、同様の過程でA"という新たな生涯を受けることになります。
輪廻主体アートマンを認めないにしても、刹那滅論と輪廻思想を調和させるには、前刹那の存在と後刹那の存在を繋ぐものが考えられなければならないはずです。両者は因果関係で結ばれているため、連続性を保持して繋ぐものに「縁起」を設置する必要があると思います。この縁起こそ大乗仏教が強調した「空性」「随縁真如」「如来法身」(如来蔵・仏性・法性・光り輝く心)であり、真の自己と呼べるものです。例えば、西田幾多郎は『善の研究』で「個人あって経験あるにあらず、経験あって個人あるのである。」との言葉を残していますが、この言葉を借りて表現すると「個体あって縁あるにあらず、縁あって個体ある(縁生)のである。」になると思います。ただし、アートマンによる有我説も、究極的には「梵我一如(普遍原理ブラフマンと個体原理アートマンの同一)」なので、ブラフマン≒無垢真如、アートマン≒有垢真如となり、大乗仏教の無我説と大きく変わるところはないのかなと筆者は個人的に感じます。業相続の永遠と続く生成変化における刹那の死が根本であって、その中の特殊として個体の死があると考えるのが無我説の輪廻で、個体の死によって自己を保存する基体が別個体へ移動すると考えるのが有我説の輪廻ということでしょう。
さて、個体の寿命を意味すると思われる「命根」という言葉が普通に登場しました。この命根が身体の連続性(維持)を担っているとも言えます。パーリ仏典中部に次のような説法があります。
友よ、次の五つの感官は異なる領域、異なる活動範囲があり、互いの活動領域を経験することがありません。即ち、眼の感官、耳の感官、鼻の感官、舌の感官、身の感官です。友よ、異なる領域、異なる活動範囲があり、互いの活動を経験することがないこれらの五つの感官の拠り所は意です。また意がそれらの活動領域を経験します。友よ、次の五つの感官があります。即ち、眼の感官、耳の感官、鼻の感官、舌の感官、身の感官です。友よ、これら五つの感官は寿命(命根)によってとどまっています。寿命は熱(煖・体温)によってとどまっています。熱は寿命によってとどまっています。寿命と熱の関係はまさに火における光と熱の関係と同様です。この身体に関して、智慧豊かな人は説きたまう。三つのものを離れたならば、色形あるものは、捨てられたものであると観じよ。と。その三つとは寿命と熱と識とです。もしも、この三つが身体を離れたならば、身体はうち捨てられて横たわり、精神のないものとして、他者の食物となります。
命根(寿命)と体温(熱・煖)は相互依存関係にあり、これらによって五正根(眼根・耳根・鼻根・舌根・身根)が維持されていることが説かれています。即ち、死した肉体からは身体を維持していた命根・体温と、精神である識が離れていることになります。識と共に命根・体温も死した肉体から離れると表現されていることから、本来ならばこの後に続く中有期間を思わせる表現なのかなと思います。また、体温(熱・煖)は業生火とも言われ、識の連続を保証する縁(有分心の源)とも密接に関わっていることが分かります。話が長くなりましたが、「宿命通」の内容は次のようになります。
宿命通(過去の生存を想起する智)
このようにして、心が、安定し、清浄となり、純白となり、汚れなく、付随煩悩を離れ、柔軟になり、行動に適し、確固不動のものになると、かれは、過去の生存を想起する智に心を傾注し、向けます。かれは、種々の過去における生存を、例えば、一生でも、二生でも、三生でも、四生でも、五生でも、十生でも、二十生でも、三十生でも、四十生でも、五十生でも、百生でも、千生でも、十万生でも、また数多の破壊の劫でも、数多の創造の劫でも、数多の破壊と創造の劫でも、次々思い出します。
『そこでは、これこれの名があり、これこれの姓があり、これこれの色があり、これこれの食べ物があり、これこれの楽と苦を経験し、これこれの寿命があった。その私は、そこから死んで、あそこに生まれた。そこでも、これこれの名があり、これこれの姓があり、これこれの色があり、これこれの食べ物があり、これこれの楽と苦を経験し、これこれの寿命があった。その私は、そこから死んで、ここに生まれかわっているのである』と。このように具体的に、明瞭に、種々の過去における生存を、次々思い出します。
それは、大王よ、たとえば、人が自分の村から他の村へ行き、その村から自分の村へ戻って来て、「私は自分の村からあの村へ行った。そこでは、このように立った、このように坐った、このように語った、このように黙秘した。また、その村から、かの村へ行った。そこでも、このように立った、このように坐った、このように語った、このように黙秘した。そして、私はその村から自分の村へと戻って来ている」と。このように考えるようなものです。
「パーリ仏典 第二期1 長部 戒蘊篇Ⅰ」片山一良 訳より引用
最初の話に戻りますと、釈尊が本意として輪廻思想を認めたのか認めなかったのか、真実を知ることはできません(厳密に言うとパーリ仏典ですら釈尊入滅後、弟子達によって編集されたものなので)。筆者の勝手な私見になりますが、仮に認めていたとしても、本来はパーリ仏典で説かれるような根本煩悩たる無明や渇愛を断たない限り輪廻から逃れられないみたいに厳しいものではなかったのではないかと思うのです。それが「四向四果」の思想に表れているように感じてならないのです。
ここに関する筆者独自の勝手な仏教観は上の記事の通りです。人は「自分が心から大切に想う人々」や「自分を心から大切に想ってくれる人々」との縁を拠り所にして、輪廻の道から外れることができると考えています。生前に自分以外に心から大切に想う他者達がいた、もしくは自分を心から大切に想ってくれる他者達がいた、そのような人は輪廻の道を行く必要はないのではないかということです(勿論、浄土仏教の還相廻向のように苦しむ人々を浄土に導きたい等、慈悲の目的があって輪廻を望む者は例外)。逆に、自我への執着が強く自分自分!と他者を顧みず生きた未熟な人にこそ輪廻の道(苦の道)が待っているのではないかと思います。