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死は終わりではなく、大切な人との永遠の別れでもない 〜遺された人々の心の中には故人が生き続けている〜

大乗仏教の経典は歴史上の釈尊(釈迦如来)以外にも数多くの諸仏を認め、併せて各諸仏が所有する仏国土をも想定しました。一仏国土に一仏の原則により、それぞれの仏が固有の浄土を建立すると考えました。

 

その代表例が阿弥陀如来の極楽浄土でしょう。その極楽浄土は法蔵菩薩の誓願成就の果として出現した世界であって、阿弥陀如来(報身仏)と極楽浄土(仏国土)は同時に誕生したといえます。このように、極楽浄土というのは阿弥陀如来にとって自身の誓願成就の報いなのですが、そこに往生する菩薩達や衆生達にとっては各々の念仏修行や阿弥陀如来への信心の功徳の果報であって個別の業に基づくものとなります。しかし、それにも関わらず、極楽浄土はその創造主たる阿弥陀如来自身にも、そこに往生する各菩薩・各衆生にも共通の果報としてあることになります。

 

さて、菩薩の上求菩提・下化衆生の誓願成就の功徳が、未来の報身仏仏国土を創り出すという思想は覚りを得た如来の場合の話ですが、これを如来でなく迷える衆生の場合に読み替えると、唯識思想になるかと思います。或る衆生の阿頼耶識に保存された過去の業(種子)が、未来のその衆生の主観(識自体)客観(識内の表象)を創り出すというメカニズムに共通を感じます。

 

一切は識の所産で外界は存在しないというのが唯識思想でした。そして、外界が存在せず、阿頼耶識が各衆生(各心相続)ごとに異なっているのに共通の客観世界を体験する理由に、「共相種子(共業)」を説いている点も、極楽往生した菩薩達やあらゆる衆生達が阿弥陀如来と同じく極楽浄土を体験できるメカニズムと共通しています。

 

唯識思想において、無明に覆われた衆生の心相続は阿頼耶識(八識)の流れですが、無明を滅して明を得た如来の場合は、阿頼耶識(八識)が転換した大円鏡智(四智)となります。即ち、大円鏡智(四智)は仏身と仏国土であり、仏国土であるため特定の功徳を積んだ衆生を、その衆生の死後、そこに招き入れる力があると考えることもできると思います。

 

それでは、まだ仏ではない我々迷える衆生の阿頼耶識(八識)には、特定の業を積んだ者を、その者の死後、自身の識(心)の中に招き入れる力はないのか?いや、筆者はあると信じ、下記の記事を書きました(これはあくまで筆者の勝手な仏教観です)。ここでは、招かれる側の故人が招く側の遺された人を生前から大切に想ってきたこと、もしくは、招く側の遺された人が招かれる側の故人を大切に想っていること、などがその特定の業になります。

hiruandon-desu.hatenablog.com

①人が肉体の死を迎えた時、その人は自身の肉体を離れ、「自分が心から大切に想う人々」や「自分を心から大切に想ってくれる人々」の心の中へとその居住地を移すのではないかと思います。

②自分が心から大切に思う人々、自分を心から大切に思ってくれた人々も全員亡くなった時に人は、社会(国家)・文化・歴史の流れを身体とする完全な歴史的生命(歴史的遺産)の共同体に入って新たな活動を再開するものだと思います。

 

故人が生前大切に想っていた人々や故人を大切に想う人々の識(心)を「家」に例え、上記の①の故人を「在家の故人」、②を「出家の故人」と表現しました。出家と表現した②ですが、そこには幾重にも階梯があると思われ、生前と死後(①)の旅を終えた我々が最終的に帰る場所なのかもしれません。

 

例えば、原始仏教で説かれる「預流・一来・不還・阿羅漢」の四向四果は②の領域でしょう。また、初期大乗経典の一つである『阿閦仏国経』では、阿閦如来(報身仏)と妙喜国(仏国土)が登場し、その妙喜国に往生する菩薩は預流に等しいことが説かれます。このことから、仏国土によって往生に難易度?の差はある(阿弥陀如来の極楽浄土は最も往生しやすい)にしても、一般的に預流前後レベルあたりの心は必要になってくるのかなと思います。

 

しかしながら、生前このように優れた域に達せなくとも、人は「自分が心から大切に想う人々」や「自分を心から大切に想ってくれる人々」とのを拠り所に①となって、先に②に達した先人達(ご先祖様など)とも交流しつつ、徐々に自身も②を覚っていけるものではないかと筆者は考えています。

 

四無量心(慈悲喜捨)の瞑想を実践してみるとよく分かりますが、自己と大切な者の幸福を祈ることは、生前の我々でも抵抗感なくできるのではないでしょうか。(ここでの自己の幸福とは、誰かに心から想って貰えるような人間になることであり、自分勝手が通用する状態とは全く異なります。)

 

死は終わりでもなければ、大切な人との永遠の別れでもない、即ち遺された人々の心の中には亡くなった人が生き続けています。故人が自分に遺してくれたものは、遺された人に未来へと踏み出す力を与えてくれると思います。二人三脚で未来を創造していけるのです。