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【原始仏教】仏教の瞑想法を四無量心の観点から考察Ⅲ

 

hiruandon-desu.hatenablog.com

前回の内容を簡単にまとめると、次のようになります。

 

とは「一切の有情は幸福であれかし。」などと念じ、利益と安楽をもたらそうと願うことです。似て非なる心情が貪欲・愛執であり、退治される心情が瞋恚です。慈を修して究竟すれば、浄解脱(四禅)に至ります。

とは「どうか一切の有情が、この苦しみから脱れますように。」などと念じ、不利益や苦しみを除去しようと願うことです。似て非なる心情が憂悲であり、退治される心情が害心です。悲を修して究竟すれば、空無辺処に至ります。

とは「実に尊い有情たちは喜んでいる。彼らは見事によく喜んでいる。」などと心に思って喜び、彼らが利益と安楽から離れないように願うことです。似て非なる心情が世俗的な喜悦であり、退治される心情が不快・嫉妬です。喜を修して究竟すれば、識無辺処に至ります。

とは「一切の有情はすべて等しく業を自己とする。何事も自己の業によって知られるであろう。」と苦楽を観察することです。似て非なる心情が世俗的な無智の無関心であり、退治される心情が瞋恚と貪欲です。捨を修して究竟すれば、無所有処に至ります。

 

無所有処定において、修行者は自己の想を有する者になり、そして想の頂点に立った者になることが「パーリ仏典 長部」のポッタパーダへの説法で説かれています。また、「パーリ仏典 相応部」で説かれる「七つの界」においても以下のように、無所有処界までが想定であるとされています。

○七つの界

比丘たちよ、これに七つの界があります。七つとは何か。光界、浄界、空無辺処界、識無辺処界、無所有処界、非想非非想処界、想受滅界です。比丘たちよ、これが七界です。比丘たちよ、この光界なるもの、この界は闇によって知られます。比丘たちよ、この浄界なるもの、この界は不浄によって知られます。比丘たちよ、この空無辺処界なるもの、この界は色によって知られます。比丘たちよ、この識無辺処界なるもの、この界は空無辺処によって知られます。比丘たちよ、この無所有処界なるもの、この界は識無辺処によって知られます。比丘たちよ、この非想非非想処界なるもの、この界は無所有処によって知られます。比丘たちよ、この想受滅界なるもの、この界は滅尽によって知られます。比丘よ、この光界なるものと、浄界なるものと、空無辺処界なるものと、識無辺処界なるものと、無所有処界なるもの、これらの界は想定として得られます。比丘よ、非想非非想処界なるもの、この界は行残定として得られます。比丘よ、この想受滅界なるもの、この界は滅尽定として得られます。

 

この七つ界についての詳細は説明されていないようですが、おそらく光界が近行定、浄界が安止定の四禅ではないかと筆者は考えています。仮にそうなると、浄界はに、空無辺処界はに、識無辺処界はに、無所有処界はに対応していることになります。

 

無所有処界は自己の想の頂点であり、一切の有情は等しく業を自己としており、等しく生きているとの平静・不偏な見方が得られます。「有情たちが経験する苦楽というものは自己の業によって知られるであろう」と、有情たちへ慈・悲・喜の情を抱きつつも、過度に流されることなく観察します。しかし、平静・平等な観察眼がありながらも各個体存在の在り方を、その者が有する自己の業にのみにしか見出せていない段階とも考えられます。言い方を変えると、自己と他者、自己の業と他者の業の間に明確な壁がある(自己の独立性が強すぎる)見方ではないかということです。

 

そこを超えた非想非非想処界は、自己の想が有るのでもなく、無いのでもないとう、自己の想についてはごく微細な状態です。しかし、それでも「有情たちが経験する苦楽というものは自己の業によって知られるであろう」と、自己の業のみ(行)が残っている状態です。

 

想受滅界はそれも完全に静まり、今自分が存在することができるのは自己の業だけではなく、他者の業や環境の業があるからだというからの観察眼が得られるのではないかと思います。このような縁の共同体における自分こそ真の自己と呼べるものであり、後の大乗仏教で登場する如来蔵・仏性(有垢真如)と如来法身(無垢真如)との思想、さらには唯識派で説かれる阿頼耶識縁起における共相種子という自他の縁に関わる種子(業)との思想はとても重要であると思います。