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大乗仏教 & 西田幾多郎の「逆対応と平常底」

 

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西田幾多郎の『絶対矛盾的自己同一』は晩年、特に「絶対矛盾的」部分を強調した『逆対応』、及び「自己同一」部分を強調した『平常底』に分節化される形で表現されるようになります。『逆対応』というのは絶対(神仏=弁証法的一般者)と相対(人間=個物)が相互に自己否定的に対応(作用)し合っていることを示します。西田が強い共感を示したセーレン・キルケゴールの思想も参考になっていると思われ、浄土仏教(特に浄土真宗)の信仰を理論的にしたと言われています。もう一方の『平常底』とは禅仏教の思想に由来しているとされ、最終的に我々の自己が、逆対応的に接している神仏(絶対一者=絶対無=自己の根源)に合一することです。

 

順番に見ていきます。まず、絶対というのは言葉の通り「対を絶ったもの」であるため、本来ならば他へ作用するということはありえず、仮にそうであるならば、その絶対なるものは相対に過ぎないものとなってしまいます。しかしながら、逆に如何なるものにも作用しないものは無であることに等しいものであり、真に絶対なものと言えないと、西田は考えました。如何なるものにも作用しない絶対とは、古代インドの大乗仏教 中観派の開祖であるナーガルジュナ(龍樹)が定義した『自性(スヴァバーヴァ)』そのものです。龍樹もそのようなものは存在しない(無自性空)と主張しています。龍樹の自性(スヴァバーヴァ)の定義については、仏教学者の梶山雄一氏が的確に次のようにまとめています。

自性とは他のものによって作られたものでないから自立的存在である。それは決して変化せず、生滅しないから恒常的存在である。そして、因果関係の分析の中に見られるように、自性は部分を持たないから単一的存在である。したがって、ナーガルジュナのいう自性とは、自立・恒常・単一な実在のことであることが分かる。

「それ自体不生不滅でも変化する本体」や「他に作用する本体=部分を持つ本体」というものがあってもよいではないか!?と龍樹に対して主張すれば、おそらく『それは本体と言えない』との反論が返ってくると思われます。西田がここで説く「自己」と龍樹が説く「自性(スヴァバーヴァ)」は定義が異なることが分かります。

 

※自性という言葉は、説一切有部や般若経典など、ナーガルジュナ以前から使われています。それぞれの学派において、定義が異なることに注意が必要です。西田の「自己」と同じような意味で用いられていることも多いです。また、サーンキヤ哲学にも自性(プラクリティ)という用語が登場しますが、ナーガルジュナの自性(スヴァバーヴァ)とは性質が異なるものです。

 

龍樹の自性(スヴァバーヴァ)に該当する「絶対」は無に等しい…そこで西田は『真の絶対とは対を絶ったものではなく、自己自身を否定すると同時に、その否定した自己自身である相対を内に含むものであり、その相対に作用(対応)する』としました。即ち、「相対(人間・衆生)」というのは「絶対(神仏)」の自己否定体の現れ(表現的自己)ということになり、神仏は自身の内に人間・衆生を含むことになります。西田が説く「真の絶対=真の神仏」は自身と真逆の性質を持つ、即ち悪性である人間・衆生にまで下って救うことができ、その救うことこそが神仏の「絶対の愛=大慈悲」でもあります。大乗仏教や密教では救う際における仏の状態や人格を、応身仏(色身仏・化身仏)や報身仏と言います。

 

そして、一方の作られた「相対」側もそのままでは、作る「絶対」側に作用することはできません。仮にそのまま作用できるのであれば、その相対は絶対であることになってしまうからです。こちらについても同様に、『相対は自己自身を否定すると同時に、その否定した自己自身である絶対に作用(対応)する』としています。相対(人間・衆生)側が、自らを常に死を包含して生きている存在であることを認める、即ち自己否定することで、絶対(神仏)との関係が築かれることになります。「個物的限定即一般的限定、一般的限定即個物的限定」と同様の構図ですね。

 

「自己自身を否定して他へ作用する」というのは、初期大乗仏典の一つである『金剛般若経』にて既に説かれています。諸説ありますが、仏教学者の中村元氏はこの『金剛般若経』が最も初期の大乗仏典でないかと考えているようです。確かに、この経典にはまだ「空」という言葉が登場していません。

{X}は{X}でないと如来によって説かれた。それだからこそ、{X}と言われる。

意味:(人々が{X}であると考える){X}は(真の){X}でないと如来によって説かれた。それだからこそ、(仮の){X}と言われる。

という文言が繰り返し登場します。鈴木大拙「即非の論理」と名付けたものですが、西田は相対(人間・衆生)側のこのような自己否定のみならず、絶対(神仏)側のこのような自己否定があるからこそ、人間は神仏と接することができるとしました。西田によれば、人間・衆生側の作用とその逆方向からの神仏側の作用は相互に対応し合っていて、人間・衆生の(自己否定的な)働きがあるところに同時に神仏の働きがあり、神仏の働きがあるところに同時に人間・衆生の働きがあることになります。

 

ところで、セーレン・キルケゴールの「神人論」は、西田も強い共感を示したとされます。キルケゴールが説く神人は、イエス・キリストのことであり、大工ヨセフの子であるイエス個人(一人の人間)が自己矛盾的に神であるということです(人間全てが自己矛盾的に神であるというわけではない)。しかし、西田が考える神人は逆に特定の一人の人間ではなく各個人(人間全て)となります。キルケゴールにとって、自己は自分自身に関係することにおいて同時に絶対他者(神)にも関係するため、両者は密接に関連し合ってはいるものの別々(別人格)の関係です。人はキリストに倣って生きなければならない、そこには神人からの呼び声が同時にあります。そのため、キルケゴールにおいて神人であるイエス・キリストは各個人の範例ということになります。しかし、西田においての神人は各個人の底(根源)であるため、神の呼び声というのは自己自身の底からの声ということになります。キルケゴールの場合、神から人への道はあるものの、人から神への道は道はありません。それに対し、西田は神から人への道は同時に人から神への道であることになります。

 

西田がキルケゴールの思想を巧みに読み替えていますが、そこには浄土真宗の開祖である親鸞の思想も参考になっているのではないかと考えられています。浄土経典の原点は古代インドにおいて初期の般若経典と同時期、『阿閦仏国経』に続いて登場した、阿弥陀如来による救いを説いた『仏説無量寿経・仏説阿弥陀経』であると考えられています。所謂、阿弥陀如来の浄土三部経は五濁悪世(末法の世)の衆生のために釈尊(釈迦如来)が阿弥陀如来による救いを説いたという内容になっています。釈尊入滅から500~1000年の後、教法が正しく伝わっていないため、修行者は自力で覚りを開けない末法の世がやってくる…この世が劣悪環境となってまともな修行すらできないならば、「阿弥陀如来の誓願に身を委ねて極楽往生を目指そう!阿弥陀如来の極楽浄土に生まれ、快適環境で修行して覚りを開こう!衆生を導こう!」というのが古代インドにおける浄土教の原点になります。厳密にいうと〈極楽往生=仏陀になる〉ではなく、そこで上求菩提・下化衆生の誓願を立て修行をするということです。

 

さて、ここで、五濁悪世の此岸側に阿弥陀如来へ救済を求める衆生(人間)の声があり、極楽浄土の彼岸側に衆生(人間)を救おうと呼び掛ける阿弥陀如来の声があることになります。相互に逆対応しており、此岸側からの救済を求める声が強ければ強いほどに、彼岸側から救済しようと呼びかける声も強くなります。即ち、親鸞が『歎異抄』において説く「善人なおもて往生を遂ぐ、況や悪人をや」の言葉通りとなります。阿弥陀如来の前において、人間は皆悪人です。悪人に該当しない人間はいません。ここでの善人とは、そんな悪人の中でも阿弥陀如来に救いを求めることなく、五濁悪世の世で頑なに自力で覚りを開こうとしている人達ということになります。即ち、この親鸞の言葉は、「救いを求めない善人(聖道門)でさえも救われるのだから、救いを求める悪人(浄土門)が救われるということは言うまでもない」といった意味になると思います。

 

仏教において、善悪という言葉は道徳的な意味で用いられる場合と、道徳の範疇を越えて用いられる場合があります。後者は善性・悪性の意味であり、善性は不生不滅の性質・悪性は生起消滅の性質のようなイメージです。人間の世間における道徳的な善は有漏善(煩悩に汚染された善)という悪性に含まれるケースが多く、それを超越した善性は無漏善として区別されます。ここはキルケゴールの思想とも重なる部分があると思われます。人間は存在自体が「死に至る病=絶望」に冒された罪人であると、キルケゴールは説きます。そのため、神と罪人の間には絶対的な断絶が存在します。しかし、罪人である人間は神との関係を築くことでその罪から解放され、人間として自己を得ることになるのです。神との関係を築くというのは、その人が神人(イエス・キリスト)を真に信仰することであり、それは、キリスト教会に所属するか否かは関係なしに単独者として神に対して生きていくことになるかと思います。

 

晩年の西田もキルケゴール同様に、人間は存在そのものが根本悪(悪性)であると説いています。しかし、神仏との逆対応関係が構築されることで、宗教的道が開かれて根本悪は解消されていく、即ち神仏の自己否定により、生来根本悪である人間は存在することができます。しかし、繰り返しになりますが、西田が考える神仏は「信仰の対象、帰依の対象としてのみの神仏」=超越的内在者ではありません。信仰・帰依の対象である神仏は、対象的でノエマ的方向の超越者(別人格である絶対他者)ですが、西田の神仏は非対象的で自己の根源(真の自己)というノエシス的方向の超越者(純ノエシス、内在的超越者)となります。真の自己という宗教的意識の境地において、臨済宗の開祖である臨済『臨済録』で説くように、人は「赤肉団上 一無位真人」(仏性・如来蔵)を覚ってそれに合一します。自己の根源に合一したその境地は絶対無の自覚に基づく弁証法的世界(行為的直観の世界)であり、「我(I)」と「汝(you)」と「彼(he)/彼女(she)」という人格的自己同士が非連続の連続として関わり合う「慈悲と智慧」の世界と考えられます。

 

西田の逆対応と平常底の理論を、阿弥陀如来に救われて極楽往生し、その後の修行で仏陀になるまでを対象にしていると仮定した場合、自身を五濁悪世から極楽浄土へと救ってくれた阿弥陀如来とは他者(仏陀となった法蔵菩薩の人格)のみを指すのではなく、同時に自己の根源でもあったことになると思います。即ち、一般的に阿弥陀如来は報身仏の代表として説明されますが、同時に法身仏でもあるということです。初期大乗仏典の一つである『華厳経』に登場する法身仏・盧遮那如来(仏陀となった普荘厳童子と釈尊を含む人格的自己同士)と報身仏・盧遮那如来(仏陀となった普荘厳童子の人格)の関係とまさに同じです。また、後期大乗仏教である密教において、法身仏・盧遮那如来は大日如来(大毘盧遮那仏)となり、そんな法身である大日如来は報身である四仏の統合体となります。インドの後期密教では金剛界五仏の中央(通常は大日如来の場所)に位置する中尊がしばしば交代し、阿閦如来や阿弥陀如来になったりもします(その際、大日如来は中尊から四仏の一尊として報身・毘盧遮那仏となる)。これは各衆生を導く阿弥陀如来などの報身仏達が、同時に各衆生達の自己本来の根源たる法身でもあることをわかりやすく示していると思います。

【補足】

法蔵菩薩:阿弥陀如来の前身。

普荘厳童子:盧遮那如来の前身。ただし、仏陀となった釈尊も盧遮那如来と呼ばれる。

 

かなり強引ではありましたが、人間存在は根本悪とする思想と人間存在の深層は本来清浄(根本善)であるという思想を何となく繋げることができたかなと思います。このように考え方によっては、西田の『絶対矛盾的自己同一』に由来する「逆対応と平常底」の思想は浄土仏教(浄土門)と禅仏教(聖道門)・密教を結ぶ理論にも成り得るのではないかと思います。