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【西田哲学】自覚Ⅰ ~西田の自覚、スピノザの神、フィヒテの事行〜

hiruandon-desu.hatenablog.com

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『善の研究』において、西田は一切を純粋経験の発展・分化として考えました。しかしながら、純粋経験②=反省的思惟は、主観と客観が分裂した状態であり、現在意識に変わりないとは言っても統一状態を前提とする純粋経験とやはり異なります。そして、主客未分の純粋経験①が如何にして翻って反省され、分化発展するのかが必ずしも明確ではありませんでした。

 

『自覚に於ける直観と反省』ではその点が考慮され、純粋経験の「自覚」という概念が導入されました。その「自覚」とは、主客未分の不断進行の意識「直観」と、この進行の外に立って翻ってこれを見た意識「反省」を内面的に結び付けるものです。反省とは自己が自己自身を見ることであり、反省により主客未分のものが翻って主客へと分化します。根源的な「自覚」の発展の契機として「直観」と「反省」があることになります。そんな「自覚」の根底には「絶対自由意志」が想定されました。「直観」と「反省」の繰り返しを根本的に統一する「絶対自由意志」は、西田の自覚体系において最高次元にあり、従って我々がいかにしても対象化することができません。

 

そもそもこの「自覚」の思想は、西田の中で『善の研究』の頃から定まりつつあったようです。当初「統一的或者」等と呼んでいた存在がヨハン・ゴットリープ・フィヒテ(1762-1814)「事行(知的直観)」の概念を介して発展したものであることは西田本人が述べています。フィヒテは「自我」の行為(生み出す自我=行)と、その産物(生み出される自我=事)が完全に一つであるところの同一性を「事行」と呼んでいます。西田における「統一的或者(根源的統一力)」とそれの二つの側面である「統一するもの(主観・精神)」「統一されるもの(客観・自然)」の関係は、フィヒテの『知識学』における「絶対的自我(生み出す自我)」とその活動の二つの契機である「個人的自我(精神)」「非我(自然)」の相互の関係に対応しています。フィヒテもまた絶対的自我の純粋活動すなわち「事行」から、その活動における二つの自己分裂的ないし自己限定的契機として「個人的自我」と「非我」を位置づけています。

 

このように、「個人的自我」の根底に「普遍的な精神」の活動を想定している点において、西田の「自覚」とフィヒテの「事行」は共通しています。しかしながら、フィヒテの「事行」で主体となるのは「絶対的自我」であるのに対して、西田の「自覚」では「超個人的な自覚(絶対自由意志)」ばかりでなく「個人的な自覚」の側面も含まれています。ここが西田の「自覚」とフィヒテの「事行」の決定的な相違点です。この頃から既に西田の「絶対自由意志」は「場所(共同体)」としての特徴が強く見られ、フィヒテの「事行」というよりはイマヌエル・カント(1724-1804)「物自体(叡智界)」に近い印象を受けます。しかし、西田は意志の内に知覚を包むことで知的自覚が成立すると説くため、カントの超越論的統覚はフィヒテの事行へ到らねばならなかったとしたようですね。

 

その一方、西田哲学は、バールーフ・デ・スピノザ(1632-1677)の哲学との類似性もよく言われますね。スピノザにおいて、「思惟(精神)」「延長(物体)」「唯一実体である神」の二つの属性・様態になります。スピノザ哲学は「唯一実体である神」を自己にとって超越的な存在者としてでなく、内在的な存在者と考え、自己の側の絶対否定や自己滅却によって神への帰入を説きました。西田哲学もまた真実在である絶対無(神)個物(自己)の内なるもの、即ち内在的な超越者と考えてます。そして、我々個物側の自己否定を通して自身がそうした絶対無(神)の自己限定であることを自覚して行為すべきであることを説きます。スピノザと西田は共にこうした内在主義的な立場に立っているという点で共通しています。また、自己(個物)神(絶対無)の相即不ニ的な関係を説いている点でも共通しています。

 

しかしながら、両者の思想には明確な違いがあります。スピノザの神は完全性と永遠性を具備した無限の存在であり、我々個物(精神)とはあくまでその有限な様態・変状に過ぎません。スピノザの個物(精神)は自己を滅却させることで神(普遍)の中に埋没して、神(普遍)の中に自己を見ようとします。

 

逆に、西田の神(普遍)は不断に自身を否定することによって自身を表現(普遍からの個物の生起・権限)し、自身を形成して行く存在となります。その形成の担い手として各々の個物があり、個物側の自己否定には無限の創造性と自由が与えられています。西田の個物は自己の働きを普遍の自己限定作用と考え、神(普遍)の中に包摂されて、自己の中に神(普遍)を見ようとします。

 

「一即多・多即一」の立場の西田にとって、スピノザ哲学は普遍側の「一」に偏り過ぎていることになるでしょう。西田はスピノザ哲学を静的な実体の立場に立つ「主語主義の論理」の典型として、個物の自由で創造的な行為を否定する「無世界論」と批判しています。『スピノーザに於いて、全然、個物と云うものが否定されるに至った。時のない世界となった。スピノーザの哲学にはどこにも意志の自由を容れる余地がない。スピノーザはデカルトの実体を単に主語的方向にのみ徹底的に考えていった。而して彼は抽象的な静的基体に陥ってしまった。』と主張しています。西田の表現において、述語的統一とは一つの円(同じ場所)を意味しますが、主語的統一は一つの点(統一点)になります。

 

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スピノザは、各個物が持っている自分の存在を維持しようとする力である「コナトゥス」(自己保存の努力)を認めます。この「コナトゥス」によって、上記の記事に登場するルネ・デカルトにおける「連続創造説」「自己同一性」の問題に向き合っています。スピノザによると、我々は一人一人が神の様態です。その様態である我々の各々が持つ存在を維持しようとする力(欲求)は、神の性質の永遠なる必然性に由来するものとなります。しかし、我々が各々を部分でなく全体と見なす限り、相互に調和することはできないことをスピノザは説きます。この不十全なコナトゥスを十全な方向へ導くためには、全体としての神の必然性を理性によって認識することに自己の本質(コナトゥス)を認め、この認識を他者と分かち合うことが求められます(一人一人のコナトゥスを大切にすることで、人々が共同で安定して暮らしていける社会が実現)。人間理性の最高の働きとは神との必然的関係において、永遠の相の下に個物を直観することであり、これに伴う自足感が「神に対する知的愛」とされます。ここに道徳の最高の理想があり、「人間の神に対する愛」とは、神がその変容・様態である人間を介して自己自身を愛する「神の知的愛」の一部であり、同時に「人間に対する神の愛」となります。スピノザはデカルトから思想的刺激を受けたものの、デカルトとは異なり、このように人間の「自由意志」を認めません。存在するものは全て神の中にあり、神によって考えられなければならないとします。即ち、イマヌエル・カントや西田とは異なる方向にデカルトの神を考えていったことになると思います。