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【原始仏教】四念処Ⅲ マインドフルネス ~身・受・心・法の随観~

 

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四無量心(慈・悲・喜・捨)の瞑想と四念処(身・受・心・法の随観)は相互に関連し合い、禅定を妨げる顕在煩悩、即ち五蓋(貪欲・瞋恚・惛沈睡眠・掉拳後悔・疑)を除去する働きがあるだけでなく、禅定に入れるようになった後も引き続き重要になってきます。

○四念処(身・受・心・法の随観)

「パーリ仏典 長部 大念処経」において、四念処は次のように説かれています。

比丘たちよ、この道は諸々の生ける者が清まり、愁いと悲しみを乗り越え、苦しみと憂いが消え、正理を得、涅槃を目の当たり見るための道です。即ち、それは四念処です。

四とは何か。比丘たちよ、ここに比丘は{身・諸々の受・心・諸々の法}において{身・諸々の受・心・諸々の法}を観続け、熱心に、正知をそなえ、念をそなえ、(自己という)世界における貪欲と憂いを除いて住みます。

『ブッダのことば パーリ仏典入門』 片山一良 著を参照

 

ここでの「貪欲と憂い」と表現されているものが、禅定を妨げる五蓋を指しています。四念処の実践は、身の随観十四種、受の随観九種、心の随観十六種、法の随観五種が説かれています。

身念処(身の随観)

身念処とは、自己と他者の身において身を観続けて住むこと、そして身において生起の法と消滅の法を観続けて住むことです。身の随観十四種のうち、第一と第二の随観を見ていきます。

出息・入息の把握(安般念)

念をそなえて出息し、念をそなえて入息します。

長く出息をする時、『私は長く出息をする』と知り、長く入息をする時、『私は長く入息をする』と知ります。

短く出息をする時、『私は短く出息をする』と知り、短く入息をする時、『私は短く入息をする』と知ります。

『私は全身(出息の初・中・後)を感知して出息しよう』と学び、『私は全身(入息の初・中・後)を感知して入息しよう』と学びます。

『私は身行(粗い出息)を静めつつ出息しよう』と学び、『私は身行(粗い入息)を静めつつ入息しよう』と学びます。

以上のように、内の身において、身を観続けて住みます。あるいは、外の身において、身を観続けて住みます。あるいは、内と外の身において、身を観続けて住みます。

また身において、生起の法を観続けて住みます。あるいは、身において、消滅の法を観続けて住みます。あるいは、身において、生起と消滅の法を観続けて住みます。そして、彼に『身がある』との念が現前します。

『ブッダのことば パーリ仏典入門』 片山一良 著より引用

 

自己(内)の身(息という身)を観続け、あるいは他者(外)の身も(自己の身と)同じであると観続け、あるいは時には自己の身を、時には他者の身を同じであると観続けます。

また、例えば鍛冶工の鞴(ふいご)と吹き筒とそれに応じた努力とによって風が起こるように、人の身体と鼻孔と心(意志)によって粗い息(身行)が生起すること(生起の法)を観続け、鞴と吹き筒とそれに応じた努力とがなければ風が起こらないように、身体と鼻孔と心(意志)とが消滅すれば粗い息(身行)が滅尽すること(滅尽の法)を観続けます。そこから続いて、実際の身行(行住坐臥など)が随観の対象になっていきます。

威厳路の観

行っているときは『私は行っていると』と知ります。

立っているときは『私は立っている』と知ります。

坐っているときは『私は坐っている』と知ります。

臥しているときは『私は臥している』と知ります。

そして、彼はその身が存する通りにそれを知ります。そして、彼に『身がある』との念が現前します。

『ブッダのことば パーリ仏典入門』 片山一良 著より引用

 

受念処(受の随観)

受念処とは、自己と他者の受において受を観続けて住むこと、そして受において生起の法と消滅の法を観続けて住むことです。受の随観九種は次のようになります。

楽の受を感受すれば、『私は楽の受を感受する』と知ります。

苦の受を感受すれば、『私は苦の受を感受する』と知ります。

非苦非楽の受を感受すれば、『私は非苦非楽の受を感受する』と知ります。

欲に関わる楽の受を感受すれば、『私は欲に関わる楽の受を感受する』と知ります。

無欲に関わる楽の受を感受すれば、『私は無欲に関わる楽の受を感受する』と知ります。

欲に関わる苦の受を感受すれば、『私は欲に関わる苦の受を感受する』と知ります。

無欲に関わる苦の受を感受すれば、『私は無欲に関わる苦の受を感受する』と知ります。

欲に関わる非苦非楽の受を感受すれば、『私は欲に関わる非苦非楽の受を感受する』と知ります。

無欲に関わる非苦非楽の受を感受すれば、『私は無欲に関わる非苦非楽の受を感受する』と知ります。

そして彼に『受がある』との念が現前します。

『ブッダのことば パーリ仏典入門』 片山一良 著より引用

 

誰しも受け入れなければならない第一の矢によって引き起こされる苦受・楽受・捨受の観察です。

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心念処(心の随観)

心念処とは、自己と他者の心において心を観続けて住むこと、そして心において生起の法と消滅の法を観続けて住むことです。心の随観十六種は次のようになります。

貪りのある心を『貪りのある心』であると知ります。あるいは、貪りを離れた心を『貪りを離れた心』であると知ります。

怒りのある心を『怒りのある心』であると知ります。あるいは、怒りを離れた心を『怒りを離れた心』であると知ります。

愚癡のある心を『愚癡のある心』であると知ります。あるいは、愚癡を離れた心を『愚癡を離れた心』であると知ります。

萎縮した心を『萎縮した心』であると知ります。あるいは、散乱した心を『散乱した心』であると知ります。

禅定に入った心を『偉大になった心』であると知ります。あるいは、禅定に入ってない心を『偉大になっていない心』であると知ります。

悟っていない心を『有上の心』であると知ります。あるいは、悟っている心を『無上の心』であると知ります。

安定した心を『安定した心』であると知ります。あるいは、安定していない心を『安定していない心』であると知ります。

解脱した心を『解脱した心』であると知ります。あるいは、解脱していない心を『解脱していない心』であると知ります。

…そして、彼に『心がある』との念が現前します。

『ブッダのことば パーリ仏典入門』 片山一良 著より引用

 

第一の矢の三受をありのままに受け入れることができた心、もしくは受け入れることができずに第二の矢・第三の矢を受けて煩悩が生じた心の観察と言えるかもしれません。仮に煩悩が生じたとしても、そのことに気付くことができれば、増長させずに対処できますね。

法念処(法の随観)

法念処とは、自己と他者の法において法を観続けて住むこと、そして法において生起の法と消滅の法を観続けて住むことです。法の随観五種における法とは、五蓋、五取蘊、十二処、七覚支、四諦です。不善法の代表として五蓋の観察を、善法の代表として七覚支の観察を見ていきます。

五蓋の随観

①内に貪欲が有れば、内に貪欲が有ると知ります。内に貪欲が無ければ、内に貪欲が無いと知ります。未だ生じていない貪欲がどのように生じるのかを知ります。既に生じている貪欲がどのように断たれるのかを知ります。断たれている貪欲が未来にどのように生じないのかを知ります。

②内に瞋恚が有れば、内に瞋恚が有ると知ります。内に瞋恚が無ければ、内に瞋恚が無いと知ります。未だ生じていない瞋恚がどのように生じるのかを知ります。既に生じている瞋恚がどのように断たれるのかを知ります。断たれている瞋恚が未来にどのように生じないのかを知ります。

③内に惛沈・睡眠が有れば、内に惛沈・睡眠が有ると知ります。内に惛沈・睡眠が無ければ、内に惛沈・睡眠が無いと知ります。未だ生じていない惛沈・睡眠がどのように生じるのかを知ります。既に生じている惛沈・睡眠がどのように断たれるのかを知ります。断たれている惛沈・睡眠が未来にどのように生じないのかを知ります。

④内に掉拳・後悔が有れば、内に掉拳・後悔が有ると知ります。内に掉拳・後悔が無ければ、内に掉拳・後悔が無いと知ります。未だ生じていない掉拳・後悔がどのように生じるのかを知ります。既に生じている掉拳・後悔がどのように断たれるのかを知ります。断たれている掉拳・後悔が未来にどのように生じないのかを知ります。

⑤内に疑念が有れば、内に疑念が有ると知ります。内に疑念が無ければ、内に疑念が無いと知ります。未だ生じていない疑念がどのように生じるのかを知ります。既に生じている疑念がどのように断たれるのかを知ります。断たれている疑念が未来にどのように生じないのかを知ります。

…そして、彼に『法がある』との年が現前します。

『ブッダのことば パーリ仏典入門』 片山一良 著を参照

 

五蓋(貪欲・瞋恚・惛沈睡眠・掉拳後悔・疑)のように不善の法であれば、四正勤にて、それがどのように新生されてしまい、既に生じているものはどのように断たれ、再発しないのかという法則も観察対象になっていきます。瞋恚や貪欲の退治には慈悲喜捨の四無量心が、惛沈・睡眠や掉拳・後悔の退治には、善の法として観察対象となっている下記の七覚支(念・択法・精進・喜・軽安・定・捨)が活躍してくれます。

七覚支の随観

①内に念という優れた悟りの部分が有れば、内に念という優れた悟りの部分が有ると知ります。内に念という優れた悟りの部分が無ければ、内に念という優れた悟りの部分が無いと知る。未だ生じていない念という優れた悟りの部分がどのように生じるのかを知る。既に生じている念という優れた悟りの部分の修習が如何に成就するかを知る。

②内に択法という優れた悟りの部分が有れば、内に択法という優れた悟りの部分が有ると知ります。内に択法という優れた悟りの部分が無ければ、内に択法という優れた悟りの部分が無いと知る。未だ生じていない択法という優れた悟りの部分がどのように生じるのかを知る。既に生じている択法という優れた悟りの部分の修習が如何に成就するかを知る。

③内に精進という優れた悟りの部分が有れば、内に精進という優れた悟りの部分が有ると知ります。内に精進という優れた悟りの部分が無ければ、内に精進という優れた悟りの部分が無いと知る。未だ生じていない精進という優れた悟りの部分がどのように生じるのかを知る。既に生じている精進という優れた悟りの部分の修習が如何に成就するかを知る。

④内に喜という優れた悟りの部分が有れば、内に喜という優れた悟りの部分が有ると知ります。内に喜という優れた悟りの部分が無ければ、内に喜という優れた悟りの部分が無いと知る。未だ生じていない喜という優れた悟りの部分がどのように生じるのかを知る。既に生じている喜という優れた悟りの部分の修習が如何に成就するかを知る。

⑤内に軽安という優れた悟りの部分が有れば、内に軽安という優れた悟りの部分が有ると知ります。内に軽安という優れた悟りの部分が無ければ、内に軽安という優れた悟りの部分が無いと知る。未だ生じていない軽安という優れた悟りの部分がどのように生じるのかを知る。既に生じている軽安という優れた悟りの部分の修習が如何に成就するかを知る。

⑥内に定という優れた悟りの部分が有れば、内に定という優れた悟りの部分が有ると知ります。内に定という優れた悟りの部分が無ければ、内に定という優れた悟りの部分が無いと知る。未だ生じていない定という優れた悟りの部分がどのように生じるのかを知る。既に生じている定という優れた悟りの部分の修習が如何に成就するかを知る。

⑦内に捨という優れた悟りの部分が有れば、内に捨という優れた悟りの部分が有ると知ります。内に捨という優れた悟りの部分が無ければ、内に捨という優れた悟りの部分が無いと知る。未だ生じていない捨という優れた悟りの部分がどのように生じるのかを知る。既に生じている捨という優れた悟りの部分の修習が如何に成就するかを知る。

…そして、彼に『法がある』との年が現前します。

『ブッダのことば パーリ仏典入門』 片山一良 著を参照

 

七覚支は善法であるため、四正勤にて、それがどのようにしたら新生することができ、既に生じているものはどのようにしたら維持・増大できるのかも観察対象になります。そんな七覚支については、Wikipediaで割と詳細に説明がされています。

ja.wikipedia.org

マインドフルネス(念)中の心が懈怠・惛沈・睡眠に傾いているとき(努力不足)には喜覚支・択法覚支・精進覚支の修習が、逆に心が掉拳・後悔に傾いているとき(努力過剰)には軽安覚支・定覚支・捨覚支の修習が適しているとされます。

 

まとめ

1.自己(内)の{身・受・心・法}を観続け、他者(外)の{身・受・心・法}も自己のものと同じであることを観続ける

2.{身・受・心・法}における生起の法と消滅の法を観続け、自己と他者のそれらがいずれも因縁によって成り立つことを観続ける

 

四無量心も四念処も自己と他者が対象になってくる点が大きく共通していると思われます。そして、四無量心が瞑想の情的要素であったのに対し、四念処は瞑想の知的要素な感じがあります。そう考えると、四正勤や四神足は瞑想の意的要素が強いのかもしれません。どれも密接につながっており、修行者の適性によって入っていき方も異なってくるものと思われます。

【原始仏教】四念処Ⅱ 慈悲喜捨の四無量心(四梵住)・慈悲の瞑想

 

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上の記事の続きになりますが、我々は自身を感受(苦受・楽受・捨受)と一体化させた状態で生活していると言えると思います。更に言うと、五蘊と一体化させた状態ですね。例えるならば、五蘊という箱の中に閉じ込められた状態では、五蘊という箱自体を俯瞰・洞察することは不可能です(箱の外側、箱の外の世界を知ることはできない)。

 

五蘊を我と誤認している(五蘊の箱の中にいる)状態における我々は、何事においても「自分、自分!私、私!」であり、ある意味独我論的な認識形態です。ここに、慈悲の心があって、即ち五蘊という箱の外に出ることができれば、今自分が存在することができるのは他者や環境があるからだというを実感できるのではないでしょうか。このような縁の共同体における自分こそ真の自己と呼べるものではないかと思います。現に大乗仏教では、真如縁起(不動真如と随縁真如の二義)という思想が登場します。また、大乗仏教の唯識派でも阿頼耶識縁起における共相種子という自他の縁に関わる重要な思想が説かれています。

 

さて、四無量心の瞑想は「怒りを消す効果がある」のように表現されることが多いのですが、重要なのはその怒りが私憤の域に過ぎないものなのか、義憤の域にあるものなのか、であると筆者は考えます。人々が義憤を捨ててしまうと、残忍非道が肯定されてしまい、一切衆生の幸福への願いからかけ離れた現実が実現してしまいます。それは道徳(戒律)を重んじる仏教の立場とは異なると思われます。

人道を外れている者は自らの残忍非道な行いが先の将来、自身を地獄の苦難へ突き落すことを知らないため、そんな彼らに対しては「まず、彼らに心から悔恨と贖罪の念が生じるように」との願いを含めての幸福を祈る形になるかと筆者は個人的に考えています。

 

〇四無量心

四念処(身・受・心・法)の瞑想の実践に入る前に、心を落ち着かせるために四無量心(慈・悲・喜・捨)の瞑想を行います。心を落ち着かせるための実践として、「安般念」という調息法もありますが、そちらはまた別の記事で触れたいと思います。さて、慈悲の実践について「パーリ仏典 小部 経集(スッタニパータ)」では次のように説かれています。

何ぴとも他人を欺いてはならない。たといどこにあっても他人を軽んじてはならない。悩まそうとして怒りの想いをいだいて互いに他人に苦痛を与えることを望んではならない。

あたかも、母が己が独り子を命を賭けても護るように、そのように一切の生きとし生けるものどもに対しても無量の(慈しみの)こころを起こすべし。

また全世界に対して無量の慈しみの意(こころ)を起こすべし。上に、下に、また横に、障害なく怨みなく敵意なき(慈しみを行うべし)。

立ちつつも、歩みつつも、坐しつつも、臥しつつも、眠らないでいる限りは、この(慈しみの)心づかいをしっかりとたもて。この世ではこの状態を崇高な境地と呼ぶ。

『ブッダのことば―スッタニパータ』中村元 著より引用

 

行・住・坐・臥という一切の威儀路において、親が子に対するように、一切の有情(生きとし生けるもの)に対して無量の心を起こし、念じるべきであることを説いています。慈悲喜捨の一つ一つを見ていくと、以下のようになります。

慈無量心の瞑想:慈愛心の遍満する瞑想

慈とは「一切の有情は幸福であれかし。」などと念じ、利益と安楽をもたらそうと願うことです。

ここに比丘は、慈しみのある心をもって、一つの方角に、また第二の方向、第三の方向、第四の方向に満たし住みます。このように、上・下・横・遍く一切の処・一切の世界に、慈しみのある、広大・広博・無量にして怨みなく害することのない心をもって満たし住みます。

悲無量心の瞑想:同情心の遍満する瞑想

悲とは「ああ、どうか一切の有情が、この苦しみから脱れますように。」などと念じ、不利益や苦しみを除去しようと願うことです。

ここに比丘は、憐れみのある心をもって、一つの方角に、また第二の方向、第三の方向、第四の方向に満たし住みます。このように、上・下・横・遍く一切の処・一切の世界に、憐れみのある、広大・広博・無量にして怨みなく害することのない心をもって満たし住みます。

喜無量心の瞑想:同慶心の遍満する瞑想

喜とは「実に尊い有情たちは喜んでいる。彼らは見事によく喜んでいる。」などと心に思い、彼らが利益と安楽から離れないように願うことです。

ここに比丘は、喜びのある心をもって、一つの方角に、また第二の方向、第三の方向、第四の方向に満たし住みます。このように、上・下・横・遍く一切の処・一切の世界に、喜びのある、広大・広博・無量にして怨みなく害することのない心をもって満たし住みます。

捨無量心の瞑想:平静心の遍満する瞑想

捨とは「何事も自己の業によって知られるであろう」と苦楽を観察することです。

ここに比丘は、平静のある心をもって、一つの方角に、また第二の方向、第三の方向、第四の方向に満たし住みます。このように、上・下・横・遍く一切の処・一切の世界に、平静のある、広大・広博・無量にして怨みなく害することのない心をもって満たし住みます。

 

このように、四無量心の瞑想は初期仏教の頃から説かれていますが、その実践方法が具体的に整備されたのは、後のブッダゴーサ長老著『清浄道論』における解釈からではないかと言われています。四無量心における祈りの対象を順にみていくと、慈と悲は自己→親しい者→無関係者→嫌いな者の順、喜は親しい者→無関係者→嫌いな者の順、捨は無関係者→親しい者→嫌いな者の順となっています。

 

また、日本テーラワーダ仏教協会では次の「慈悲の瞑想」が説かれています。

ja.wikipedia.org

私は幸せでありますように
私の悩み苦しみがなくなりますように
私の願いごとが叶えられますように
私に悟りの光が現れますように
私は幸せでありますように(3回)

私の親しい生命が幸せでありますように
私の親しい生命の悩み苦しみがなくなりますように
私の親しい生命の願いごとが叶えられますように
私の親しい生命に悟りの光が現れますように
私の親しい生命が幸せでありますように(3回)

生きとし生けるものが幸せでありますように
生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように
生きとし生けるものの願いごとが叶えられますように
生きとし生けるものに悟りの光が現れますように
生きとし生けるものが幸せでありますように(3回)

ここまでがワンセットで、さらに続きます。

私の嫌いな生命が幸せでありますように
私の嫌いな生命の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな生命の願いごとが叶えられますように
私の嫌いな生命に悟りの光が現れますように

私を嫌っている生命が幸せでありますように
私を嫌っている生命の悩み苦しみがなくなりますように
私を嫌っている生命の願いごとが叶えられますように
私を嫌っている生命に悟りの光が現れますように

生きとし生けるものが幸せでありますように(3回)

回向の文

仏法僧の三宝に礼拝、帰依し、戒をまもり、慈悲の瞑想と、ヴィパッサナー修行によって積まれたこの功徳を、神々、先祖、祖父母、両親、親族、恩師をはじめとし、一切の生きとし生けるものに、回向いたします。
この功徳によって、すべての生きとし生けるものが幸福に暮らせますように。
そして、解脱が得られますように。

【原始仏教】四念処Ⅰ 第一の矢・第二の矢

今日注目されているマインドフルネスの実践法は、原始仏教の代表的な修行方法である「四念処(身念処・受念処・心念処・法念処)」が基礎にあるとされています。身心に生じる快楽や苦痛の感覚感情や思考を、ありのままに苦・楽または非苦非楽として感じていることを俯瞰的に自覚する(正念・正知する)修行です。正念・正知ができていない凡夫と、できている聖なる弟子の違いは『パーリ仏典 相応部』の箭に分かりやすく登場しています。「仏教 第一の矢 第二の矢」というワードで検索するとこれに関係するページが多くヒットしますね。

 

矢に例えた話になっており、第一の矢で射られた時、仏法を聞かない凡夫は続いて第二の矢を射られて二重の「受」を感じてしまうのに対し、仏法を聞く聖なる弟子は第一の矢で射られるだけで第二の矢で射られることなく、第一の矢の「受」のみを感じるだけとなります。

 

第一の矢とは、我々が日常的に身体で自然と感じる、苦受(苦痛)、楽受(快楽)、捨受(苦でもなく楽でもない非苦非楽)の感覚や感情です。身の受とも表現されています。苦受はそれ自体が苦であることは言うまでもありません。故に、「清浄道論」では苦苦といわれます。楽受はそれが必ず失われていくことで苦を引き起こすため、「清浄道論」では壊苦と表現されます。最後の捨受は身体の感覚的には苦でも楽でもないのですが、作られたものであることに変わりなく、生起しては消滅するという無常なる性質によって苦を引き起こすため、行苦と表現されます。この「第一の矢」は凡夫であろうと、仏弟子であろうと、更には生前の釈尊といえども躱すことができず、誰しも受け入れなければならないものです。生命体である以上、自然と生じる感覚や感情の段階といえるでしょう。

 

※日本語訳の「苦」は、原語のパーリ語によるとdukkhaであり、du:苦・嫌悪とkha:空虚・不安定という二種の意味になるようです。パーリ仏典に登場する「苦」は、苦と空虚の二義があり、行苦は後者の意味合いが強いものとなります。

 

第二の矢とは、第一の矢の感覚・感情を受け入れることができずに強く反応した結果、誘発されて生じる内的な感覚や感情のことで、心の受とも表現されています。苦受に誘発される憂受(憂悲)、楽受に誘発される喜受(喜悦)、捨受に誘発される無頓着といった感情が該当します。第一の矢の場合と同様、苦受に強く対抗する憂悲はそれ自体が、楽受に耽溺して強く追求する喜悦はそれが必ず失われていく恐怖や焦燥として、捨受ゆえの強い無頓着はそれが無常であることでの喪失感や悔恨の念として、対象者を深い悲しみ・憔悴・嘆き・昏迷に陥れます。

 

仏法を聞かない凡夫は、身体の苦痛(第一の矢)を受けるだけでなく、それに付随してそのことを憂い・悲しむことで精神の苦痛(第二の矢)も二次的に生み出してしまいます。結果、一本目の矢で射貫かれた傷口が更に二本目の矢で射貫かれる二重の苦痛を強いられます。仏法を聞く聖なる弟子の場合、第一の矢で射貫かれるのみで、一本目の矢による苦痛のみを感じ取ると説かれています。二本目の矢を躱しているため、そこから派生する煩悩、即ち第三以降の矢を作りません。

 

第三以降の矢は第二の矢における反応によって引き起こされる煩悩、または潜在的に形成される煩悩的傾向です。第二の矢は、眠れる煩悩(随眠・結と言われる潜在煩悩)を形成または顕在化させます。苦受への強い対抗心は「瞋恚」の煩悩を、楽受への強い追求心は「貪欲」の煩悩を、捨受による無常なるものへの強い無頓着は「無明」の煩悩を潜在的に形成または顕在化させ、対象者を捉えてしまいます。この「煩悩三毒」はそこから多種類の煩悩へと派生していきます。我々の心にはこのように、潜在煩悩が汚泥のように蓄積しており、煩悩ではない生命としての自然な(第一の矢段階の)欲求や怒りの感情を呑み込んでしまいます。

 

聖なる弟子の中で、阿羅漢の境地に達した者であっても、そこから退いてしまう者と退かない者がいます。阿羅漢は第三以降の矢に起因する潜在煩悩を全て断ち切っているのですが、油断して第二の矢を射られてしまった際に正念・正知が疎かになっていると、生じた煩悩が心へ再び感官を通して流入してしまうものと考えられます。

 

また、『パーリ仏典 相応部 受相応 有偈品』では、第一の矢である三受(三種類の感覚)について次のように説かれています。

比丘たちよ、もし、比丘がこのように気付きと正知をもって精進しつつ、煩悩を炙りながら頑張っている時に、楽しいという楽の感覚が生まれたら、彼はこのように知ります。

『まさに、私に楽の感覚が生まれた。しかしながら、まさにそれは原因があって生まれたものであり、原因がなければ生まれない。何が原因かを言えば、まさにこの身体が原因なのだ。しかしながら、まさにこの身体は無常であり、作られたものであり、原因があって現れたものである。身体に原因して生まれた楽の感覚がどうして常住になるだろうか。』と。~

彼は身体についても、楽の感覚についても、無常であると観ています。そのうちに消えてなくなるものだと観ています。執着するものではないと観ています。滅するものにとらわれてはならないと観ています。捨てるべきものと観ています。彼が身体についても、楽の感覚についても、無常であると観ていると、そのうちに消えてなくなるものだと観ていると、執着するものではないと観ていると、滅するものにとらわれてはならないと観ていると、捨てるべきものと観ていると、身体と楽の感覚にある随眠(隠れている)貪欲の煩悩ですが、それがなくなります。

 

比丘たちよ、もし、比丘がこのように気付きと正知をもって精進しつつ、煩悩を炙りながら頑張っている時に、苦の感覚が生まれたら、彼はこのように知ります。

『まさに、私に苦の感覚が生まれた。しかしながら、まさにそれは原因があって生まれたものであり、原因がなければ生まれない。何が原因かを言えば、まさにこの身体が原因なのだ。しかしながら、まさにこの身体は無常であり、作られたものであり、原因があって現れたものである。身体に原因して生まれた苦の感覚がどうして常住になるだろうか。』と。~

彼は身体についても、苦の感覚についても、無常であると観ています。そのうちに消えてなくなるものだと観ています。執着するものではないと観ています。滅するものにとらわれてはならないと観ています。捨てるべきものと観ています。彼が身体についても、苦の感覚についても、無常であると観ていると、そのうちに消えてなくなるものだと観ていると、執着するものではないと観ていると、滅するものにとらわれてはならないと観ていると、捨てるべきものと観ていると、身体と苦の感覚にある随眠(隠れている)瞋恚の煩悩ですが、それがなくなります。

 

比丘たちよ、もし、比丘がこのように気付きと正知をもって精進しつつ、煩悩を炙りながら頑張っている時に、苦でもなく楽でもない感覚が生まれたら、彼はこのように知ります。

『まさに、私に苦でもなく楽でもない感覚が生まれた。しかしながら、まさにそれは原因があって生まれたものであり、原因がなければ生まれない。何が原因かを言えば、まさにこの身体が原因なのだ。しかしながら、まさにこの身体は無常であり、作られたものであり、原因があって現れたものである。身体に原因して生まれた苦でもなく楽でもない感覚がどうして常住になるだろうか。』と。~

彼は身体についても、苦でもなく楽でもない感覚についても、無常であると観ています。そのうちに消えてなくなるものだと観ています。執着するものではないと観ています。滅するものにとらわれてはならないと観ています。捨てるべきものと観ています。彼が身体についても、苦でもなく楽でもない感覚についても、無常であると観ていると、そのうちに消えてなくなるものだと観ていると、執着するものではないと観ていると、滅するものにとらわれてはならないと観ていると、捨てるべきものと観ていると、身体と苦でもなく楽でもない感覚にある随眠(隠れている)無明の煩悩ですが、それがなくなります。

 

比丘たちよ、たとえばまた油を原因にして、さらには燈芯を(原因にして)、灯りの炎が燃えるのです。まさに、その(油)と燈芯が尽きてしまうと、原因がなくなり灯りが消えるのです。比丘たちよ、まさにそのように比丘は身体に依存している(三種類の)感覚を感じていると、『私は身体に依存している(三種類の)感覚を感じている。(身体だけに限った感覚を感じている)』と知ります。

生きている間続く(三種類の)感覚を感じていると、『私は生きている間続く(三種類の)感覚を感じている(命がある限りの死ぬまでの感覚を感じている)』と知ります。身体が壊れた後は、命が尽きて終わることから(感覚を作ることもないと知って)、『まさにこの世で(生きている間で)、感じるもの全てに喜ばなくなり、冷静に落ち着いている。』と知ります。

 

自身に苦の感受が生じた時は「苦の感受が生じている」と正念・正知し、楽の感受が生じた時は「楽の感受が生じている」と正念・正知するということです。楽受を強く追求し、苦受へ強く対抗する状態は、いわば自分を三受と一体化させてしまっています。これは真の自己とも呼べるもの(我執を連想させる自己という表現は好ましくないのですが、一応このように表現します)が五蘊(無常なる自分の心身という檻)の中に縛られ、観察者と、観察対象(五蘊)が峻別されていない状態です。

 

ここまでのお話は、「未だ生じていない悪(煩悩)を生じさせない」という方向性が強いものでしたが、実際は「既に生じた悪(煩悩)を断つ」という方向性と同時に行われていくものと思われます。「慈悲喜捨の四梵住」によって「五蓋=既に生じている顕在煩悩」の除去が進むにつれ、観察者と観察対象の峻別もより働くようになるのではないでしょうか。

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感覚に縛られて、それと一体化して流されてしまうのではなく、感覚は縁によって生起・消滅する無常なるものであるという事実だけを認識する修行に努め励むには観察者と観察対象を峻別する術を身に付ける必要があると思われます。

苦痛などの感覚(第一の矢)を客観的な視点から俯瞰・洞察する瞑想修行を通じて、第二の矢への連鎖が断ち切られ、潜在煩悩(随眠)を形成もしくは顕在化させないことによって、第一の矢への忍容へ進んでいけるのではないでしょうか。

「縁」の力 〜原始仏教・唯識仏教・西田哲学を独自の視点から考えてみた~

釈尊が仮に、生天思想や輪廻思想に本来は否定的であったと仮定した場合、釈尊の覚りとはどのようなものだったと考えられるか?について、西田幾多郎の哲学を参考に筆者の勝手な一私見を書いたものが下記の記事になります。

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西田幾多郎は個人の死後について、個人の死がその人の死において完全な終わりというわけではなく、社会・文化・人類歴史の流れ等の中でその存在が継続すると考えました。その存在が社会や文化と密接に関連し、さらにはそれらに貢献することによって本質的な意味を持つという考え方に基づいているといえます。故人は歴史的生命(歴史的遺産)となって、それを受け取った次世代の人達を発展させると同時に、その次世代の人達が歴史的遺産を発展させる、そこに歴史の形成がある、即ち社会・文化・歴史とは、生人と故人が作り上げていくものであると言えると思います。生命とは個人の肉体や精神(五蘊)ではなく、このような共同体を真の自己とするものであるということになります。こう考えるならば、五蘊無我も言葉の通りに受け取れますし、衆生の死後も如来の死後の世界も語る必要はないでしょう。

今回は、上の記事の続きを書きたいと思います。上の記事に引き続き、今回の内容もあくまで筆者独自の仏教観に基づくものであり、学術的な仏教の教説や西田哲学とは異なるものであることを再度述べておきます。

 

 

人(生命)が死後、歴史的生命になるまでには段階があると、筆者は考えました。永六輔氏の言葉に「人間は二度死ぬ。一度目は肉体の死、二度目は遺された人々の記憶から消えた時。」というものがあります。これを参考にしてみます。

 

○一度目の死後

人が肉体の死を迎えた時、その人は自身の肉体を離れ、「自分が心から大切に想う人々」や「自分を心から大切に想ってくれる人々」の心の中へとその居住地を移すのではないかと思います。失うものは何もない。ここで、大乗仏教の唯識思想の智慧をお借りします。

 

大乗仏教の一派である唯識派は、我々が経験するすべての現象が心の所産であり、外界の実在ではないという思想を展開します。私達皆それぞれに阿頼耶識(アーラヤ識)=心という深層意識があって、そこにある種子が主観と客観というこの世界を作り出していることになります。外界が存在せず、この世界が私達の阿頼耶識の種子が造り出している表象に過ぎないのなら、何故私達に共通の認識というものが生じうるのか?それは、私達の阿頼耶識に「共相種子」という共通の認識を生じさせる種子があり、それれが互いに相互限定することで目前の世界が顕現しているからです。故に、唯識思想では直観も想起も同様に種子に基づくものであり、大きな相違はなくなります。

 

自分の阿頼耶識の中に「自分の身体を構成する種子」と「他者の身体を構成する種子」があり、同時に、他者の阿頼耶識の中にも「自分の身体を構成する種子」が存在していることを意味しており、自分の身体というものは自分と他者の種子より成り立つものであることが分かります。自分の阿頼耶識内に自分自身の肉体を構成維持し続ける種子を失った者(肉体の死を迎えた者)の身体は「自分が心から大切に想う人々」や「自分を心から大切に想ってくれる人々」の共相種子を主な拠り所にすると考えます。そして、遺された者達が故人を思い出した時に、その人は蘇ります。記憶の中で生き続ける故人もまた本物のその人なのです。

 

○二度目の死後

自分が心から大切に思う人々、自分を心から大切に思ってくれた人々も全員亡くなった時に人は、社会(国家)・文化・歴史の流れを身体とする完全な歴史的生命(歴史的遺産)の共同体に入って新たな活動を再開するものだと思います。在家者から出家者になるようなものなので、厳密には「二度目の死」という表現は不適切なのかも知れませんが、分かりやすくするためにこう表現します。

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一度目の死を迎えた後の故人はまだ生人と同じく個物側に属しており、二度目の死を迎えた後に一般者側へ移動するものと考えています。個物同士が一般者を作り、一般者が個物同士を作るところに、歴史の創造がある、その関係は釈尊時代の僧団のようです。

個物に該当する在家の優婆塞・優婆夷が、一般者に該当する遊行する出家の比丘・比丘尼に布施をし、比丘・比丘尼が優婆塞・優婆夷に法を説いて導くところに僧団の歴史の創造があります。

人は一度目の死で、他者の心の中という家に住む在家の故人となり、二度目の死で出家の故人となるイメージです。

 

○自力と他力

原始仏教における四向四果を、一般者側である完全な歴史的生命の共同体(上記の出家の故人)としての階梯であると仮定した場合、瞑想修行などは生前にそれを自力で覚る手段と考えることができます。しかし、大半の人は生前にこの領域を覚ることが非常に困難なので、死後に「自分が心から大切に想う人々」や「自分を心から大切に想ってくれる人々」とのを拠り所に他力で徐々にそれを覚っていくものと筆者は思います。自力が難行道であるのに対し、他力は易行道です。「縁」の力は絶大なのです。

 

人は何を果たすために生きているのか、このような他力の道に基づくならば、それは誰かに自分の想いを伝えて残すことだと思います。自分のこと、自分の想いを忘れずに憶念してくれる人々に巡り会えたなら、死は恐れる必要はないものだと思います。

 

それでも遺された者達の悲しみは深いですね。しかし、悲嘆の深さは愛の深さの表れです。人は恩愛と友誼の情に引かれるものの、老いと病と死によって必ず別れの時が来てしまいます。その時に襲いかかる深い悲しみ(愛別離苦)は、大切な故人に「私の心の中へようこそ」「私の心の中にも遊びに来てね」という愛情の裏返しなのだと思います。その悲しみも大切に受け止めていける強さが欲しいですね。