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【原始仏教】四念処Ⅰ 第一の矢・第二の矢

今日注目されているマインドフルネスの実践法は、原始仏教の代表的な修行方法である「四念処(身念処・受念処・心念処・法念処)」が基礎にあるとされています。身心に生じる快楽や苦痛の感覚感情や思考を、ありのままに苦・楽または非苦非楽として感じていることを俯瞰的に自覚する(正念・正知する)修行です。正念・正知ができていない凡夫と、できている聖なる弟子の違いは『パーリ仏典 相応部』の箭に分かりやすく登場しています。「仏教 第一の矢 第二の矢」というワードで検索するとこれに関係するページが多くヒットしますね。

 

矢に例えた話になっており、第一の矢で射られた時、仏法を聞かない凡夫は続いて第二の矢を射られて二重の「受」を感じてしまうのに対し、仏法を聞く聖なる弟子は第一の矢で射られるだけで第二の矢で射られることなく、第一の矢の「受」のみを感じるだけとなります。

 

第一の矢とは、我々が日常的に身体で自然と感じる、苦受(苦痛)、楽受(快楽)、捨受(苦でもなく楽でもない非苦非楽)の感覚や感情です。身の受とも表現されています。苦受はそれ自体が苦であることは言うまでもありません。故に、「清浄道論」では苦苦といわれます。楽受はそれが必ず失われていくことで苦を引き起こすため、「清浄道論」では壊苦と表現されます。最後の捨受は身体の感覚的には苦でも楽でもないのですが、作られたものであることに変わりなく、生起しては消滅するという無常なる性質によって苦を引き起こすため、行苦と表現されます。この「第一の矢」は凡夫であろうと、仏弟子であろうと、更には生前の釈尊といえども躱すことができず、誰しも受け入れなければならないものです。生命体である以上、自然と生じる感覚や感情の段階といえるでしょう。

 

※日本語訳の「苦」は、原語のパーリ語によるとdukkhaであり、du:苦・嫌悪とkha:空虚・不安定という二種の意味になるようです。パーリ仏典に登場する「苦」は、苦と空虚の二義があり、行苦は後者の意味合いが強いものとなります。

 

第二の矢とは、第一の矢の感覚・感情を受け入れることができずに強く反応した結果、誘発されて生じる内的な感覚や感情のことで、心の受とも表現されています。苦受に誘発される憂受(憂悲)、楽受に誘発される喜受(喜悦)、捨受に誘発される無頓着といった感情が該当します。第一の矢の場合と同様、苦受に強く対抗する憂悲はそれ自体が、楽受に耽溺して強く追求する喜悦はそれが必ず失われていく恐怖や焦燥として、捨受ゆえの強い無頓着はそれが無常であることでの喪失感や悔恨の念として、対象者を深い悲しみ・憔悴・嘆き・昏迷に陥れます。

 

仏法を聞かない凡夫は、身体の苦痛(第一の矢)を受けるだけでなく、それに付随してそのことを憂い・悲しむことで精神の苦痛(第二の矢)も二次的に生み出してしまいます。結果、一本目の矢で射貫かれた傷口が更に二本目の矢で射貫かれる二重の苦痛を強いられます。仏法を聞く聖なる弟子の場合、第一の矢で射貫かれるのみで、一本目の矢による苦痛のみを感じ取ると説かれています。二本目の矢を躱しているため、そこから派生する煩悩、即ち第三以降の矢を作りません。

 

第三以降の矢は第二の矢における反応によって引き起こされる煩悩、または潜在的に形成される煩悩的傾向です。第二の矢は、眠れる煩悩(随眠・結と言われる潜在煩悩)を形成または顕在化させます。苦受への強い対抗心は「瞋恚」の煩悩を、楽受への強い追求心は「貪欲」の煩悩を、捨受による無常なるものへの強い無頓着は「無明」の煩悩を潜在的に形成または顕在化させ、対象者を捉えてしまいます。この「煩悩三毒」はそこから多種類の煩悩へと派生していきます。我々の心にはこのように、潜在煩悩が汚泥のように蓄積しており、煩悩ではない生命としての自然な(第一の矢段階の)欲求や怒りの感情を呑み込んでしまいます。

 

聖なる弟子の中で、阿羅漢の境地に達した者であっても、そこから退いてしまう者と退かない者がいます。阿羅漢は第三以降の矢に起因する潜在煩悩を全て断ち切っているのですが、油断して第二の矢を射られてしまった際に正念・正知が疎かになっていると、生じた煩悩が心へ再び感官を通して流入してしまうものと考えられます。

 

また、『パーリ仏典 相応部 受相応 有偈品』では、第一の矢である三受(三種類の感覚)について次のように説かれています。

比丘たちよ、もし、比丘がこのように気付きと正知をもって精進しつつ、煩悩を炙りながら頑張っている時に、楽しいという楽の感覚が生まれたら、彼はこのように知ります。

『まさに、私に楽の感覚が生まれた。しかしながら、まさにそれは原因があって生まれたものであり、原因がなければ生まれない。何が原因かを言えば、まさにこの身体が原因なのだ。しかしながら、まさにこの身体は無常であり、作られたものであり、原因があって現れたものである。身体に原因して生まれた楽の感覚がどうして常住になるだろうか。』と。~

彼は身体についても、楽の感覚についても、無常であると観ています。そのうちに消えてなくなるものだと観ています。執着するものではないと観ています。滅するものにとらわれてはならないと観ています。捨てるべきものと観ています。彼が身体についても、楽の感覚についても、無常であると観ていると、そのうちに消えてなくなるものだと観ていると、執着するものではないと観ていると、滅するものにとらわれてはならないと観ていると、捨てるべきものと観ていると、身体と楽の感覚にある随眠(隠れている)貪欲の煩悩ですが、それがなくなります。

 

比丘たちよ、もし、比丘がこのように気付きと正知をもって精進しつつ、煩悩を炙りながら頑張っている時に、苦の感覚が生まれたら、彼はこのように知ります。

『まさに、私に苦の感覚が生まれた。しかしながら、まさにそれは原因があって生まれたものであり、原因がなければ生まれない。何が原因かを言えば、まさにこの身体が原因なのだ。しかしながら、まさにこの身体は無常であり、作られたものであり、原因があって現れたものである。身体に原因して生まれた苦の感覚がどうして常住になるだろうか。』と。~

彼は身体についても、苦の感覚についても、無常であると観ています。そのうちに消えてなくなるものだと観ています。執着するものではないと観ています。滅するものにとらわれてはならないと観ています。捨てるべきものと観ています。彼が身体についても、苦の感覚についても、無常であると観ていると、そのうちに消えてなくなるものだと観ていると、執着するものではないと観ていると、滅するものにとらわれてはならないと観ていると、捨てるべきものと観ていると、身体と苦の感覚にある随眠(隠れている)瞋恚の煩悩ですが、それがなくなります。

 

比丘たちよ、もし、比丘がこのように気付きと正知をもって精進しつつ、煩悩を炙りながら頑張っている時に、苦でもなく楽でもない感覚が生まれたら、彼はこのように知ります。

『まさに、私に苦でもなく楽でもない感覚が生まれた。しかしながら、まさにそれは原因があって生まれたものであり、原因がなければ生まれない。何が原因かを言えば、まさにこの身体が原因なのだ。しかしながら、まさにこの身体は無常であり、作られたものであり、原因があって現れたものである。身体に原因して生まれた苦でもなく楽でもない感覚がどうして常住になるだろうか。』と。~

彼は身体についても、苦でもなく楽でもない感覚についても、無常であると観ています。そのうちに消えてなくなるものだと観ています。執着するものではないと観ています。滅するものにとらわれてはならないと観ています。捨てるべきものと観ています。彼が身体についても、苦でもなく楽でもない感覚についても、無常であると観ていると、そのうちに消えてなくなるものだと観ていると、執着するものではないと観ていると、滅するものにとらわれてはならないと観ていると、捨てるべきものと観ていると、身体と苦でもなく楽でもない感覚にある随眠(隠れている)無明の煩悩ですが、それがなくなります。

 

比丘たちよ、たとえばまた油を原因にして、さらには燈芯を(原因にして)、灯りの炎が燃えるのです。まさに、その(油)と燈芯が尽きてしまうと、原因がなくなり灯りが消えるのです。比丘たちよ、まさにそのように比丘は身体に依存している(三種類の)感覚を感じていると、『私は身体に依存している(三種類の)感覚を感じている。(身体だけに限った感覚を感じている)』と知ります。

生きている間続く(三種類の)感覚を感じていると、『私は生きている間続く(三種類の)感覚を感じている(命がある限りの死ぬまでの感覚を感じている)』と知ります。身体が壊れた後は、命が尽きて終わることから(感覚を作ることもないと知って)、『まさにこの世で(生きている間で)、感じるもの全てに喜ばなくなり、冷静に落ち着いている。』と知ります。

 

自身に苦の感受が生じた時は「苦の感受が生じている」と正念・正知し、楽の感受が生じた時は「楽の感受が生じている」と正念・正知するということです。楽受を強く追求し、苦受へ強く対抗する状態は、いわば自分を三受と一体化させてしまっています。これは真の自己とも呼べるもの(我執を連想させる自己という表現は好ましくないのですが、一応このように表現します)が五蘊(無常なる自分の心身という檻)の中に縛られ、観察者と、観察対象(五蘊)が峻別されていない状態です。

 

ここまでのお話は、「未だ生じていない悪(煩悩)を生じさせない」という方向性が強いものでしたが、実際は「既に生じた悪(煩悩)を断つ」という方向性と同時に行われていくものと思われます。「慈悲喜捨の四梵住」によって「五蓋=既に生じている顕在煩悩」の除去が進むにつれ、観察者と観察対象の峻別もより働くようになるのではないでしょうか。

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感覚に縛られて、それと一体化して流されてしまうのではなく、感覚は縁によって生起・消滅する無常なるものであるという事実だけを認識する修行に努め励むには観察者と観察対象を峻別する術を身に付ける必要があると思われます。

苦痛などの感覚(第一の矢)を客観的な視点から俯瞰・洞察する瞑想修行を通じて、第二の矢への連鎖が断ち切られ、潜在煩悩(随眠)を形成もしくは顕在化させないことによって、第一の矢への忍容へ進んでいけるのではないでしょうか。