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無我説に基づく刹那滅論と自己同一性の問題Ⅱ ~十二縁起(十二因縁)~

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前生の生涯(個体A)において、前生Aの「最後心(死心)」に依存し、今生の「結生心」が転起して新たな身体に結びつくことでA'として新たな生涯を得ることになります。そのため、Aの最後心(最後識)が前生の身体から今生の身体へ移動するわけではありません。しかし、かと言って前生の業などの原因なくして今生に現れるわけでもありません。今生の結生心が次刹那に滅ぶと、それに応じた今生の「有分心」等が次々と刹那ごとに継起(心相続)し、その継起は命根が尽きる形での死(一般理解での死)をA'が迎えるまで継続します。その命根が尽きる前に正しい智慧を得て無明や渇愛といった煩悩を断たない限り、例えば火事の火が消火される瞬前に他へ転ぜられてしまうようにして、同様の過程でA"という新たな生涯を受けることになります。

前回の記事における上記の部分を補足します。有我説に基づく輪廻転生は、例えば個体Aが死ぬと、Aの心身からアートマンが抜け出し、来世のA'の心身に宿るというサイクルを繰り返します。即ち、有我説には「生から死の期間」「死から再生の期間」という二つの生活環があることが分かります。

 

一方、無我説ではアートマンを想定せず、そこにあるのは瞬間瞬間に消滅しては生起することを繰り返す心身の諸要素(五蘊)の流れのみということでした。我々は瞬間瞬間に輪廻転生していると考え、命根(寿命)の存続が尽きた際に起こる個体の死に伴う一般的な意味での転生(転起)は、刹那滅の転生の枠内に含まれる特殊に過ぎないことになります。例えば、個体Aの最後心(死心)に依拠することで、来世のA'の結生心が転起して身体の諸要素と結び付く流れのため、有我説で言う「死から再生の期間」がないことになります。

 

しかし、無我説であるはずの仏教にも「死から再生の期間」を示す言葉があります。「死から再生の期間」は中有(中陰)と呼ばれます。仏教では、我々が生まれて死んで再生するまでの期間を「生有・本有・死有・中有」の四有に分類しています。生有=誕生の瞬間、本有=誕生から死亡までの期間、死有=死亡の瞬間、中有(中陰)=死亡から再生までの期間です。ただし、釈尊入滅後のインド仏教において、中有を認める部派は多くはなく、上座部・大衆部・一説部等多くの部派認めていませんが、説一切有部犢子部(正量部)、後に大乗仏教の唯識派となる瑜伽師などは認めていました。パーリ仏典を編集した弟子達の中でも、中有の期間を「認める派」と「認めない派」が混在しているように思われ、それが「十二縁起(十二因縁)」の一貫性のない解釈に繋がっているように感じられるのです。

 

中有の期間を認める派からすれば、自我(個体意識)が五蘊の仮和合に過ぎないとは言っても輪廻転生を認める以上、個体の業(カルマ)の相続を担うものは必要になってくるはずだということです。「個体の死」は「構成要素の刹那の死」の中に含まれる特殊に過ぎないとの説明だけではやはり不十分な印象は否めません。そこで、彼らは業(カルマ)の相続を担うのは、必ずしもアートマンである必要はなく、五蘊から成り立つ二次的な「縁生の我」でもよいとしました。蘊自体(心身の諸要素自体)は刹那滅であるものの、しかし、諸煩悩と諸業に汚染された各蘊については命根の存続が尽きた後に中有という相続を経て次の生涯(母胎)へ行くという思想です。即ち、アートマンはなくても(無我であっても)、個体の次生涯への業の相続は成り立つと主張します。煩悩に汚染された五蘊の仮和合体に特殊な条件を加えることで、業の担い手の役割を託した形になります。この場合、例えば、個体Aの命根の存続(寿命)が尽きて次生涯A'に転生する場合、Aの最後心(死心)に依拠してA'の結生心が転起するのではなく、この間にAの諸煩悩に汚染された五蘊の仮和合体が離れて中有期間に入ります。そして、次の生涯(母胎)に入った中有Aの中有最後心(A'の識食)に依拠して次生涯A'の結生心が生起することになります。

しかし、アートマンが絶対者ブラフマンから分化した善性のものであるのに対し、この五蘊の仮和合体は煩悩に汚染されたものであるため悪性になり、我々の本質を性善とするか性悪とするかの相違点はあります。

 

〇十二縁起(十二因縁)

釈尊は解脱後、菩提樹の下で、ひとたび結跏趺坐したまま七日間解脱の楽しみにひたりながら坐していたようです。七日が過ぎた後にその瞑想から出て、その夜の最初の部分において縁起の理法を順の順序に従ってよく観察し、その夜の中間の部分において、縁起の理法を逆の順序に従ってよく観察し、その夜の最後の部分において、縁起の理法を順逆の順序に従ってよく観察しましたと言われています。

・十二縁起の順観(四諦の集諦観に該当)

これが有るときに、かれが有る。これが生起するから、かれが生起する。すなわち、無明によって行があり、行によって識があり、識によって名色があり、名色によって六処があり、六処によって触があり、触によって受があり、受によって愛があり、愛によって取があり、取によって有があり、有によって生があり、生によって老・死・愁・悲・苦・憂・悩が生ずる。このようにして、この苦しみのわだかまりが全て生起する。

・十二縁起の逆観(四諦の滅諦観に該当)

これが無いときに、かれが無い。これが消滅するから、かれが消滅する。すなわち、無明を止滅するならば、行が止滅する。行を止滅するならば、識が止滅する。識を止滅するならば、名色が止滅する。名色を止滅するならば、六処が止滅する。六処を止滅するならば、触が止滅する。触を止滅するならば、受が止滅する。受を止滅するならば、愛が止滅する。愛を止滅するならば、取が止滅する。取を止滅するならば、有が止滅する。有を止滅するならば、生が止滅する。生を止滅するならば、老・死・愁・悲・苦・憂・悩が止滅する。このようにして、この苦しみのわだかまりが全て消滅する。

十二縁起の各支の意味は大まかに、下記のように説かれていると思われます。

 

①無明:四諦に対する根本的無知(潜在煩悩)

②行:口・身・意の三行(善悪の業・潜在的形成力)

③識:眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識の六識

④名色:名は触・受・想・思・作意、色は地・水・火・風とそれらから成る色形あるもの

⑤六処:眼根・耳根・鼻根・舌根・身根・意根の六根

⑥触:六識と六根と六境の三事和合

⑦受:眼受・耳受・鼻受・舌受・身受・意受の六受

⑧愛:眼愛・耳愛・鼻愛・舌愛・身愛・意愛の六愛(渇愛)

⑨取:欲取・見取・戒禁取・我語取の四取(執着・掌握)

⑩有:迷いの生存(受胎)

⑪生:出生

⑫老死・愁悲苦憂悩:老いて死ぬこと、その過程で味わう愁(苦に触れた際の愁い・内なる愁い・内に広がる愁い)、悲(苦に触れた際の嘆き・悲嘆)、苦(身の苦しみ・身の不快・身に触れて生じる苦しい不快の感情)、憂(心の苦しみ・心の不快・意に触れて生じる苦しい不快の感情)、悩(苦に触れた際の悩乱・悩み・悩乱の状態・悩みの状態)

 

この十二縁起こと十二支縁起説(無明→行→識⇄名色→六処→触→受→愛→取→有→生→老死・愁悲苦憂悩)は、支分の少ない何種類かの縁起説(例えば十支縁起説など)を原型に発展して成立したものと考えられています。釈尊はその幾つかの原型こそ説いたものの、最終的な十二支縁起は説いていない説もありますが、重要な教義であることに変わりはないでしょう。主に人間から人間への転生を対象としていると思われ、中有という期間を認める立場と認めない立場で解釈が異なってきます。それぞれの立場に基づく解釈例を示していきます。様々な解釈があるので、一方が正解で、もう一方が不正解というものではありません。

 

〇中有を認めない場合の十二縁起解釈例

中有を認めない立場、即ち輪廻する個体が「生から死の期間」のみの生活環しか持たないと考えると、第三支目の「識」は「今生の結生心」となり、第四支目の「名色」が「今生の結生心に相伴う心作用(心所)と結び付く新たな身体の諸要素」となり、その名色が今生における受胎に該当すると思います。

 

①無明:前生の生涯における無明(潜在煩悩)。

②行:無明によって起動させられる前生の口・身・意の三行に基づく善悪の三業(カルマ)。

識:業に基づき、今生に転起した結生心

名色:今生の結生心に相伴う心作用と結び付く新たな身体の諸要素(新たな寿命・性別・六感官などの業生色)(今生への受胎)。

⑤六処:胚から胎児へ成長。胎内五位(カララ→アッブダ→ペーシー→ガナ→パサーカー)に相当。この解釈における六根は正根ではなく、扶塵根という肉体の四肢・感官ということになる。

⑥触:今生における外界への接触(出生)。

⑦受:今生における快や不快の感覚・情動やそれに基づく感情の成長。

⑧愛:今生における快への異常な愛着と所有欲や不快への異常な嫌悪と回避欲。

⑨取:今生における異常愛着に基づく接近行動と所有・保護行動、異常嫌悪に基づく攻撃行動と排除・回避行動。そのために、戦い・争い・反目・口論・罵り合い・中傷・戯言といった多くの悪しき不善の法が生じさせる人生を送る。

有:来生への受胎。

⑪生:来生の出生。

⑫老死・愁悲苦憂悩:来生の老死・愁悲苦憂悩。

 

この三世(前生・今生・来生)に亘る十二縁起の解釈がよく見受けられる感じがします。発生学的な部分もあり、現代人には馴染みやすいのかも知れませんね。無明〜識を前生、名色~取を今生、有~老死・愁悲苦憂悩を来生としているのが大きな特徴で、「名色」が今生の受胎、「触」が今生の出生、「有」が来生の受胎、「生」が来生の出生となります。

 

〇中有を認める場合の十二縁起解釈例

中有を認める立場、即ち輪廻する個体が「生から死の期間」「死から再生の期間」という二つの生活環を持つことになります。この中有期間における我々は香を食すという意味で香陰(ガンダルヴァ)とも言われ、上記の定義通りに諸煩悩に汚染された五蘊から成る(意成身の)生命体であり、同時に業の潜勢力を保持していますウパニシャッドヴェーダーンタ学派が、業の担い手にアートマンジーヴァ(個我)のような魂を説くのに対し、サーンキヤ学派において微細元素・感官・内官を構成要素とする微細な有機体(リンガ・シャリーラ)のような霊体が業の基体と説かれる点に類似しています。ただし、サーンキヤ哲学がリンガ・シャリーラの背後に自己(プルシャ)を想定するのに対し、仏教の香陰(ガンダルヴァ)の背後は無我である点が大きく異なります。

 

本来、ガンダルヴァとは『リグ・ヴェーダ』に登場する半神半獣で、インドラ(帝釈天)の宮殿で音楽師を努めると言われます。男性ガンダルヴァと女性ガンダルヴァが存在し、結婚後も他の異性と自由に愛し合い、また物質的制約を受けずに人間の夫婦の夜の営みの場に入り込んで相手を横取りしようとする好色神でもあります。また、彼らは個体ごとの名前や個性を持つ点など、我々の中有期間の振る舞いと多々共通していると考えられます。

中有を認める場合の十二縁起の主な舞台はこの中有の期間であると解釈できます。四十九日を終えた香陰(ガンダルヴァ)は完全なる四肢・感官(六処)を具える霊的な意成身を有し、虚空をさまよい、自身と縁ある男女(後に父母となる男女)の交合の場に飛んできます。そして、父母となる男女の交合に自身も参加し、そのまま受精卵を我が肉体として享受することになり、受胎が成立します。実際、パーリ仏典中部にも、

三者の和合によって受胎が起こります。比丘たちよ、母と父との交合がある、また、母に月経がある、また、ガンダッバが現れている。このように三者の和合があれば受胎が起こります。

と、夫婦の交合の場にガンダルヴァが降りて来ていることが受胎成立の一要素として説かれています。

 

この中有を認める立場において、第三支目の「識」は香陰の最初心ですが、第四支目の「名色」は香陰の最初心に相伴う心作用(心所)と身体(霊的な意成身)となり、第五支目の「六処」は香陰の意成身が具える四肢・感官(六根=正根)の働きのことになります。『岩波文庫 仏教(下)ベック著』に大変興味深い下記の解釈があります。

“六処・触・受・渇愛”というのは、肉体的に組織された個人的ないし人間的な存在者の心のはたらきというのではなく、たかだか超感性的ないし心霊的存在者の心のはたらきを言うのである。そのような心霊的存在者が受胎の際にはじめて“存在”となり、感性的ないし物質的な現存と結合するのである。仏教ではガンダルヴァ〔乾闥婆、香陰〕と名づけられる。注目すべきことに、『中部経典』第三八経は主として縁起を扱っている重要な経典であるが、そこではやはりガンダッバgandharva〔香陰〕に言及している。そこで説かれることによると、人間の肉体が成立する際に、父と母との共同作業のみではなく、その他に超感性的ないし心霊的存在者が上方の世界から降りてきて参加するという。

『仏教(下)』ベック著より引用

 

「六処」に続く、「触」「受」「愛」「取」も香陰の心の働きや行為ということになりますが、その具体的な説明が説一切有部の著書『阿毘達磨婆沙論』にあります。作家 三島由紀夫(1925-1970)の小説『豊饒の海』にその部分を引用したと思われる香陰の解説が登場しています。三島の『豊穣の海』は『春の雪』『奔馬』『暁の寺』『天人五衰』の全四巻から構成される長編小説で、輪廻に関する古今東西の哲学をはじめ、特に物語の骨格となる大乗仏教の唯識思想について詳細に調べ込まれています。香陰に関する説明が登場するのは『第二巻 奔馬』です。

仏説によれば、中有はただの霊的存在ではなく、五蘊の肉体を具えていて、五六歳ぐらいの幼な児の姿をしている。中有はすこぶるすばしこく、目も耳もはなはだ聡く、どんな遠い物音もきき、どんな障壁も透かして見て、行きたいところへは即座に赴くことができる。人や畜類の目には見えないが、ごく浄らかな天眼通を得た者の目だけには、空中をさまようこれら童児の姿が映ることがある。透き通った童児たちは、空中をすばやく駆け廻りながら、香を喰ってその命を保っている。このことから、中有または尋香(じんこう)と呼ばれ、その原語はgandharvaであり、その音表は健達縛(けんだつば)である。
童子は、こうして空中をさすらいながら、未来の父母となるべき男女が、相交わる姿を見て倒心を起す。中有の有情が男性であれば、母となるべき女のしどけない姿に心を惹かれ、父となるべき男の姿に憤りながら、そのとき父の洩らした不浄が母胎に入るや否や、それを自分のもののように思い込んで喜びにかられ、中有たることをやめて、母胎に託生するのである。その託生する刹那、それが生有である。

『豊饒の海 第二巻 奔馬』三島由紀夫 著より引用

 

男性の香陰が母胎に入るときには、母に貪欲(欲心)の念を起こし、父に対しては瞋恚(嫉妬)を起こします。女性の香陰が母胎に入るときには、父に貪欲(欲心)の念を起こし、母に対しては瞋恚(嫉妬)を起こします。これが十二縁起における「愛(渇愛)」に該当するはずです。香陰の性別がどの段階で決まるのかは不明ですが、おそらく香陰の意成身が完全な四肢・感官を具える頃には決まっているのではないかと思います。

そして、男性の香陰は母に欲心を起こすため、邪魔者の父を疎ましく憎らしく思い、父をはねのけて、自分が母と交合しているという「顛倒の想い」を起こします。女性の香陰は父に欲心を起こすため、邪魔者の母を疎ましく憎らしく思い、母をはねのけて、自分が父と交合しているという「顛倒の想い」を起こします。これが十二縁起における「取」であると考えられます。

そうして二者の和合の中に飛びこみ、そこで受胎(受肉)が成立してしまう、これが十二縁起における「有」でしょう。そのため、中有最後心(今生の識食とは「取」のことであり、それに依拠して今生に転起する結生心とは受胎の「有」の段階になります。その後、今生の出生として「生」があり、今生の「老死・愁悲苦憂悩」へと続きます。まとめると下記のようになると思います。

 

①無明:前生から離脱した「煩悩に汚染された五蘊の仮和合体」が保持する無明(潜在煩悩)。

②行:無明によって起動させられる「五蘊の仮和合体」が保持する前生の口・身・意の三行に基づく善悪の業(カルマ)。

識:「五蘊の仮和合体」を核とする香陰の最初心

名色:香陰の最初心に相伴う心作用(心所)と身体(香陰の意成身)。

⑤六処:香陰の意成身が具える四肢・感官(六根=正根)の働き。

⑥触:香陰が後に自身の父母となる男女の交合の場に降り立つ。

⑦受:香陰が父母となる男女の交わる姿に快と不快の感情を抱く。

⑧愛:香陰が異性の親に貪欲、同性の親に瞋恚(嫉妬)の煩悩を起こす。

⑨取:香陰が同性の親をはねのけ、自分が異性の親と交合しているという顛倒の想い(倒心)を起こす。中有最後心のため、今生の識食

有:今生への受胎。母胎へ入り込んだ香陰の中有最後心に依拠して、今生に転起した結生心が新たな身体と結び付く。

⑪生:今生の出生。

⑫老死・愁悲苦憂悩:今生の老死・愁悲苦憂悩。

 

無明~取が中有期間の出来事になり、有~老死・愁悲苦憂悩が今生としている点が大きな特徴です。パーリ仏典中に「無明→行→識→名色→六処→触→受→愛→四食」という縁起もあり、それがこの解釈を支持していると思います。

 

中有を認めない場合と認める場合で特に「名色」「六処」の意味が変わります。前者における六処は肉体(粗大身)の感官(扶塵根)を指すのに対し、後者のそれは意成身(微細身)の感官(正根)を指すことになります。そして、有〜老死・愁悲苦憂悩が来生か今生かも変わってきます。

 

このような解釈が面白くて筆者は気に入っていますが、実はもっと有力な他の解釈が存在しています。と言うよりも、中有を認めない場合の解釈と認める場合の解釈の整合性をとった形になる印象です。無明~識を中有期間の出来事と考えて「識」を中有最後心(今生の識食とする解釈するものです。その解釈はパーリ仏典における下記に基づくものと考えられます(識が母胎に入ると説きます)。

パーリ仏典 長部 大因縁経より

「『識の縁から名色がある』とこのように言ったが、アーナンダよ、それは次の理由によって、識の縁から名色があるというように知るべきである。アーナンダよ、識が母胎に入らなかったならば、名色は母胎の中で育つだろうか」

「そのようなことはありません、尊師よ」

「アーナンダよ、識が母胎に入った後に逸れたならば、名色はこの状態に生まれ変わるだろうか」

「そのようなことはありません、尊師よ」

「アーナンダよ、識がまだ若い少年あるいは少女に対して断たれたならば、名色は増上し、増長し、広大になるだろうか」

「そのようなことはありません、尊師よ」

「アーナンダよ、したがって、ここにおいて、これこそが名色の原因であり、因縁であり、集起であり、縁である。すなわち、識である。

『名色の縁から識がある』とこのように言ったが、アーナンダよ、それは次の理由によって、名色の縁から識があると知るべきである。アーナンダよ、もしも、識が名色において安住を得ないならば、未来における生老死苦の集起・生成が認められるだろうか」

「そのようなことはありません、尊師よ」

「アーナンダよ、したがって、ここにおいて、これこそが識の原因であり、因縁であり、集起であり、縁である。すなわち、名色である」

『初期仏典における十支縁起説の成立-四食及び識住説との関連から-』仲宗根充修 著より一部引用

 

他にも相応部において、「識の安住・増上(識住)」=(中有最後心が母体に入る)から名色の顕現に繋がる解釈があり、それらがこの説を支持していると考えられます。まとめると、次のようになると思います。

 

①無明:前生から離脱した「五蘊の仮和合体」を核として構成された香陰の意成身が保持する無明(潜在煩悩)。

②行:無明が香陰の意成身が保持する前生の口・身・意の三行に基づく善悪の業(カルマ)を起動させ、香陰としての上記の行動を取らせる。

識:母胎に入り込んだ香陰の中有最後心であり、今生の識食

名色:中有最後心に依拠して、今生に転起した結生心とそれが結び付く新たな身体(今生への受胎)。

⑤六処:胚から胎児へ成長。胎内五位(カララ→アッブダ→ペーシー→ガナ→パサーカー)に相当。この解釈における六根は正根ではなく、扶塵根という肉体の四肢・感官ということになる。

⑥触:今生における外界への接触(出生)。

⑦受:今生における快や不快の感覚・情動やそれに基づく感情の成長。

⑧愛:今生における快への異常な愛着と所有欲や不快への異常な嫌悪と回避欲。

⑨取:今生における異常愛着に基づく接近行動と所有・保護行動、異常嫌悪に基づく攻撃行動と排除・回避行動。そのために、戦い・争い・反目・口論・罵り合い・中傷・戯言といった多くの悪しき不善の法が生じさせる人生を送る。

有:来生への受胎。

⑪生:来生の出生。

⑫老死・愁悲苦憂悩:来生の老死・愁悲苦憂悩。

 

無明~識を中有期間、名色~取を今生の生涯、有~老死・愁悲苦憂悩を来生の生涯とする解釈になります。今生~来生の間にある中有期間は省略されている形になります。この解釈の優れているところは、「識」と「名色」の関係を上手く説明できるところです。『パーリ仏典 相応部 因縁篇 大品 蘆束経』に十二縁起の原型の一つとされる十支縁起が登場するのですが、そこでは「識に縁りて名色あり」「名色に縁りて識あり」が同時に成立していることが説かれています。識と名色は時間経過を含む因果関係であると同時に相互依存の関係にもあり、ここでの識は「阿頼耶識」、名色は「七識(末那識と六識)」のような構図となり、後の大乗仏教 瑜伽行唯識派の源流が感じられます。

 

〇四食

何度も「識食」という言葉を使用しましたが、これは「四食」の一つです。四食とは段食・触食・思食・識食のことで、パーリ仏典相応部では、我々の「(今生の)識を養う四の食」と説明されます(同時に色・受・想・行の四取蘊は識が住して増長する四つの足場、即ち四識住であると説かれています)。壊れる性質を持つ無常な心と身体を、我々が維持していく上で必要となってくるのが四種類の滋養素である四食ということです。パーリ仏典でも以下のような説明があります。どれも我々が心身を正常に維持していく上で必要不可欠な栄養ですが、栄養はそれに執着して過剰摂取状態になっても不健康を招くため、節度を知らないといけません。

比丘たちよ、すでに生まれている生ける者たちの存続のために、あるいは生まれを求める者たちの保護のためにこれら四食があります。四とは何でしょうか。粗大あるいは微細な物質食(段食)、第二は接触食(触食)、第三は意思食(思食)、第四は意識食(識食)です。

比丘たちよ、物質食(段食)が知悉されると五種欲(色・声・香・味・触)の貪りが知悉されることになります。五種欲の貪りが知悉されると、聖なる弟子がそれに縛られたならば再び戻ってくるかも知れないその束縛はありません(不還果)。

比丘たちよ、接触食(触食)が知悉されると三受(苦・楽・非苦非楽)が知悉されることになります。三受が知悉されると聖なる弟子はさらに行われるべきことは何もないと私は説きます(阿羅漢果)。

比丘たちよ、意思食(思食)が知悉されると三愛(欲愛・有愛・無有愛)が知悉されることになります。三愛が知悉されると聖なる弟子はさらに行われるべきことは何もないと私は説きます(阿羅漢果)。

比丘たちよ、意識食(識食)が知悉されると名色(名称と形態)が知悉されることになります。名色が知悉されると聖なる弟子はさらに行われるべきことは何もないと私は説きます(阿羅漢果)。

 

Ⅰ.最初の粗大な物質食(段食)は肉体の構造と機能を維持するために摂取する栄養素(肉体構成要素)のことです。具体的には我々が普段から口にする食料や飲料が該当します。そして、微細な物質食(段食)とは我々の享受物としての外界の対象であると思われます。具体的には色・声・香・味・触の五境であり、眼・耳・鼻・舌・身の五根(正根)が摂る食事です。仏教の「感官の防御」またはヨーガ学派の「制感(プラティヤーハーラ)」とは、五根を制御して過度に刺激を求めないようにする修行です。

Ⅱ.第二の接触食(触食)は、それを摂取した者の中で三受(苦受・楽受・捨受)となる食事です。具体的には我々の現在における身の安全や安心のことであると思われます。

Ⅲ.第三の意思食(思食)は、それを摂取した者の中で三愛(欲愛・有愛・無有愛)となる食事です。具体的には我々が未来に対して抱く希望や夢のことであると思われます。

Ⅳ.最後の意識食(識食)は、それを摂取した者の中で名色(名称と形態)となる食事です。具体的には自分が自分であるための過去の記憶のことであると思われます。十二縁起の中において、中有を認める立場では中有最後心が該当するのではないかと考えられています。

 

中有という考え方は、涅槃するまでの仮象であると主張するにしても、現象として個体ごとに過去の記憶がある以上、個体を保存する力をどう考えるのか?輪廻主体をどう考えるのか?」という、前回の記事で取り上げた問題に対して、説一切有部や犢子部(正量部)が示した答えになっていると思います。それでは、中有を認めなかった部派が「個体ごとの過去の記憶、輪廻主体」などの説明困難な課題を無視したのかと言えば、そうではなく、「中有最後心」の代わりに例えば、上座部は「有分心(有分識)」、化地部は「窮生死蘊」、大衆部は「根本識」、経量部は「種子や細意識」などを説き、この問題と向き合っています。これらの思想は、後の大乗仏教の瑜伽行唯識派の「阿頼耶識」に大きな影響を与えていることが分かります(ただ、唯識派は中有を認めつつ六識の他に阿頼耶識を立てているのですが…)。

 

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