
前回の記事で取り上げたように、『パーリ仏典 増支部 第4集 第125経 慈経』においては四無量心(四梵住)の各々が、特定の梵天界への再生と対応づけられており、対応関係は次のようになります。
四梵住 再生する梵天界
慈(mettā) → 梵身天(Brahmakāyika)
悲(karuṇā) → 光音天(Ābhassara)
喜(muditā) → 遍浄天(Subhakiṇha)
捨(upekkhā) → 広果天(Vehapphala)
そこでは、修行者が慈(あるいは悲・喜・捨)の心を一方・四方・上下・一切世界に遍満させ、広大・無量・怨みなく害意なく住する状態を好み、それに安住して死ねば、それぞれ対応する梵天界に再生することが説かれます。
この対応は、色界の禅定(四禅)との関係を背景に理解されることが多いです。
四梵住 四禅 再生する梵天界
慈 → 色界の初禅相当 → 梵身天
悲 → 色界の第二禅相当 → 光音天
喜 → 色界の第三禅相当 → 遍浄天
捨 → 色界の第四禅相当 → 広果天
ただし、この四無量心(四梵住)がそれぞれ特定の禅にしか対応しないという説は、パーリ仏典全体では必ずしも固定的ではありません。例えば、『パーリ仏典 増支部 第8集 第70経』において、四無量心(四梵住)はいずれも第四禅まで発展し得ることが説かれており、逆に『パーリ仏典 増支部 第4集 第125経』の説は「その梵住に愛着してそこに住し続けた場合の再生先」を示す文脈として読むべきではないか?とする解釈もあります。
〇修行者が「凡夫」であるか、「聖弟子」であるかの相違
更に、この経においては上記の修行者が「凡夫」である場合と、「聖弟子」である場合の違いが強調されています。
凡夫は、その再生した梵天界で寿命を終えると、再び輪廻し、場合によっては悪趣にさえ堕ちることがあるとします。
それに対し、聖弟子は、その再生した梵天界で寿命を終えた後、その存在のまま涅槃に至ると説かれます。
【四梵住を修した凡夫】
・死後、梵天界に再生する
・梵天界での寿命が尽きると、再び輪廻する
・場合によっては悪趣に堕ちることもある
【四梵住を修した聖弟子】
・死後、梵天界に再生する
・梵天界での寿命が尽きると、そのまま涅槃に至る
・再びこの世(欲界)に戻らない
凡夫と聖弟子の違いは何か?一般的に「聖弟子」とは単に信者という意味ではなく、少なくとも四向四果(七種の聖者)のいずれかに入った者を指すと考えられます。
そして、この経中における「その再生した梵天界で寿命を終えた後、その存在のまま涅槃に至る」という内容から考察すると、四無量心(四梵住)に住する域に達した修行者が、随信行者や随法行者、預流(須陀洹)や一来(斯陀含)などの聖者であれば、不還果を得ることができる、と解釈することができると思います。
何故なら、「梵天界での寿命が尽きると、そのまま涅槃に至る」、即ち、色界梵天に生まれてそこから最終的な涅槃に至るという道は、ほぼ一貫して不還果の特徴であるためです。不還者は五下分結(欲貪・瞋恚・有身見・戒禁取見・疑惑)を断っているため、欲界に二度と再生することなく、色界の五浄居(浄居天)という特殊な梵天界に生まれ、そこから阿羅漢果を完成させて涅槃に至ります。預流果は通常当てはまらないと言えます。理由は、なお最大七回の再生があるからです。そして、一来果にも当てはまりません。理由は、なお一度欲界に戻るためです。最後の阿羅漢果に至っては死後に新たな再生を受けることがないため、梵天界に再生するという記述とは整合しません。故に、この経の描写に最も自然に合致するのは「不還果の聖弟子」ということになります。そのため、多くの注釈でも、ここで実際に想定されている成果は不還果と理解されている印象を受けます。
しかし、ここで一つ疑問が生じます。『パーリ仏典』で説かれる「梵身天・光音天・遍浄天・広果天」はいずれも浄居天ではありません。浄居天は「無煩天・無熱天・善現天・善見天・色究竟天」の五天であるためです。この点について、「その再生した梵天界の生涯を終えた後、更に上位の浄居天へ再生して涅槃に至る」とする解釈が注釈書では見られることがあります。即ち、四無量心(四梵住)によって広果天などの梵天界に再生し、不還者なので寿命を終えた後に更に適切な浄居天へ至り、最終的にそこで涅槃へ至るという理解です。『パーリ仏典』中の経文は細かな中間過程を省略している可能性もあるということです。
〇凡夫は何故、四梵住を修めても不還果を得られないのか?
預流者は、五下分結(欲貪・瞋恚・有身見・戒禁取見・疑惑)における三つの束縛(有身見・戒禁取見・疑惑)を滅ぼし尽くして「聖者の流れに踏み入った人」であり、来世に悪趣に堕することの無く、必ず覚りを達成するはずである者です。七回生まれ変わるまでには完全に覚ることができ、輪廻する先は人間界もしくは天上界のみであり、他の悪趣には至らないということです。
不還者は、五下分結(欲貪・瞋恚・有身見・戒禁取見・疑惑)を全て滅ぼし尽くしたので、浄居天に再生し、そこで涅槃に入り、その世界からもはや欲界へ還って来ることが無い者が不還の者です。不還とは、もう欲界に戻って来ないという意味で、不還果になった者は五下分結における欲貪と瞋恚は二つとも消えます。また、アビダルマ仏教で扱う煩悩(結)のリストには「嫉妬」と「物惜しみ(慳貪・吝嗇)」も不還果で消えるとあります。
四無量心(四梵住)を修することで退治される煩悩は「瞋恚・害心・嫉妬・貪欲」等であるため、五下分結(欲貪・瞋恚・有身見・戒禁取見・疑惑)における「欲貪・瞋恚」が該当すると思います。その中で三つの束縛(有身見・戒禁取見・疑惑)は残るため、凡夫が四無量心(四梵住)を修めただけでは預流果を得られないことになり、当然、不還果も得られないと思います。預流果の聖弟子は既に三つの束縛(有身見・戒禁取見・疑惑)を断っているため、更に四無量心(四梵住)を修めて、欲貪・瞋恚を退治することで不還果になると考えられます。
『パーリ仏典 増支部 第4集 第125経 慈経』は一見すると「四無量心(四梵住)を修めると対応する梵天に生まれる」という単純な教えに見えますが、中身を検証してみると「凡夫と聖弟子の違い」という、解脱論に関わる重要な論点を含んでいます。また、『パーリ仏典』では四無量心(四梵住)について、少しずつ異なる側面が説かれています。あわせて読むと、「四無量心は単なる善行ではなく、禅定と智慧を結びつける重要な修行法」として位置づけられている点が見えてくるように思われます。