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本当の仏教は死後の世界を語らない~毒矢のたとえ 十無記

 

パーリ仏典中部にて説かれる、釈尊のマールンキヤプッタへの説法にて釈尊形而上学的概念に対して沈黙(無記)を保った理由が明かされています。

マールンキヤプッタ:
「私はこのように考えました。これらの見解は世尊によって記説されず、捨置され、拒否されている。もしも世尊が私に『世界は常住である』、あるいは『世界は常住でない』、あるいは『世界は有限である』、あるいは『世界は無限である』、あるいは『霊魂(アートマン)と身体は同一である』、あるいは『霊魂(アートマン)と身体は別異である』、あるいは『如来は死後に存在する』、あるいは『如来は死後に存在しない』、あるいは『如来は死後に存在しかつ存在しない』、あるいは『如来は死後に存在するものでもなく存在しないのでもない』と記説されるならば、私は世尊のもとで清らかな修行を修めよう。記説されないならば、私は修学を捨てて還俗しよう。」
「もしも世尊が知っておられるのならば、私に記説して下さい。もしも世尊が知っておられないならば、未だ智見を持たぬ者に『私は知らない、私は見ない』と言われるのは正しいですが。」

釈尊
「マールンキヤプッタよ、もしも人あって『世尊が私に、世界は常住であるとも…如来は死後に存在するものでもなく存在しないのでもないと記説されない間は、私は世尊のもとで清らかな修行を修めまい。』と告げるとしよう。マールンキヤプッタよ、完全な人格者によってそのことが記説される前にその人は命終わるであろう。マールンキヤプッタよ、例えば人あって毒矢で射られたとしよう。彼は医者の前で『私を射た者が何の職業の者で、どんな身体的特徴の者なのか知らない間はこの矢を抜きとるまい』『私を射た矢が何で出来ているのか、射た弓の弦が何で出来ているのか知らない間はこの矢を抜きとるまい』。マールンキヤプッタよ、この者(医者)によって、そのことが知られなければ、そこで彼は命終わるであろう。」

パーリ仏典中部 小マールキヤ経
『ゴータマ・ブッダ早島鏡正 著、
『原始仏典Ⅱ 中部経典』中村元 訳を参照 

釈尊はそのような形而上学的概念をただ頭で分かったところで、目の前にある苦しみや来世における輪廻の苦しみからの解放に役立たないことを説きます。また、上辺だけの知識で他者を導けるはずもなく、ただ反論者との不毛な議論へと発展してしまうだけです。

ここでのマールンキヤプッタの釈尊への言葉は、毒矢を射られた患者が医者に対して、「この毒矢を抜く前に、毒矢を射た犯人の特徴や用いられた矢や弓の弦の素材を教えてください!」と必死に訴えている状況に例えられています。言うまでもなく、毒矢を抜いて手当を受けることが先決で、犯人や弓矢の素材を知るのはその後です。

釈尊
「マールンキヤプッタよ、世界は常住であるという見解があるとき、清らかな修行に住するであろうということはない。マールンキヤプッタよ、世界は常住でないという見解があるとき、清らかな修行に住するであろうということはない。世界は常住であるという見解があっても、また世界は常住ならざるものであるという見解があっても、しかも生あり、老いることあり、死あり、愁・悲・苦・憂・悩がある。私は今目の当たりに(現実に)、これらを克服することを説くのである。世界は有限であるという見解があっても、また世界は無限であるという見解があっても…霊魂と身体は同一であるという見解があっても、また霊魂と身体は別異であるという見解があっても…如来は死後に存在するという見解があっても、また死後に存在しないという見解があっても、また死後に存在し存在しないという見解があっても、また存在するものでもなく存在しないものでもないという見解があっても、しかも生あり、老いることあり、死あり、愁・悲・苦・憂・悩がある。私は今目の当たりに(現実に)、これらを克服することを説くのである。」

釈尊
「記説されないことを記説されないこととして憶持すべきである。また、私によって記説されたことを記説されたこととして憶持すべきである。マールンキヤプッタよ、しからば、何故に私はそれを記説しなかったのか。それは目的に適い清らかな修行の基礎とならず、厭離、離貪、苦の止滅、心の寂静、優れた智慧、正しい覚り、ニルヴァーナ(涅槃)の獲得に役立たないからである。それ故に、私はそれを記説しなかったである。」

釈尊
「マールンキヤプッタよ、しからば私が記説したものは何か。『これが苦である』と私は記説した。『これが苦の生起である』と私は記説した。『これが苦の消滅である』と私は記説した。『これが苦の消滅に至る道である』と私は記説した。しからば、何故私はそれを記説したのか。けだし、それは目的に適い清らかな修行の基礎となり、厭離、離貪、苦の止滅、心の寂静、優れた智慧、正しい覚り、ニルヴァーナの獲得に役立つからである。それ故に、私はそれを記説したのである。」

パーリ仏典中部 小マールキヤ経
『ゴータマ・ブッダ早島鏡正 著、
『原始仏典Ⅱ 中部経典』中村元 訳を参照

形而上学的概念を頭で考えて理解して、議論し合っても何も得られるものはありません。それよりも、目の前にある苦悩と向き合い、修行することで、自身が経験できる範囲も拡がり、自ずとその答えも分かるということでしょう。