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仏教の「空」は心の成長=苦悩・欲望・憎悪・恐怖の束縛からの開放に伴って生じる

 

「空」という言葉は存在の法則的な意味でなく、もっと狭く心理的な意味で用いられることがあります。原始仏教においては、例えば、次のような形で「空」が用いられることもあります。

心の中にAが無い時、その心はAとしては空であると知る。更に、心の中に残るものBが有る時、その心はBとしては有ると知る。

Aによって、どれだけ心を煩わせるものがあろうと、それらはここには存在しない。Aにおいて、この想われるものはそのことによって、それは空であると等随観する。しかも、まだそこに残っているものがあるならば、その存在しているものを、これは存在すると等随観する。このようにして、如実であること、顛倒しないこと、純粋清浄であることが空への趣入となる。

これは瞑想修行にて、修行者の意識が一段階成長する過程を表しています。即ち、成長前の段階ではAに依拠して自己を確立していたわけですが、成長後である今の段階ではAに依拠せずとも自己を確立できる、代わりにAよりもより高次であるBに依拠して自己を確立していることになります。

この意識の成長の前後で自我同一性(自己同一性)に変化はないとしても、次のことは確実に言えると思います。B段階においては、A段階の{苦悩・欲望・憎悪・恐怖など}に心を煩わされることがありません。即ち、学を得たこの境地(Bへ依拠する段階)において、「Aは空であった」と覚り、Aの束縛から解放されたことになります。ただし、今度はBに束縛されることになりますが。

また、釈尊は下記のような説き方もしています。

彼(修行者)には以前のAという微細な実在の想が消滅します。その時、Bという微細な実在の想が生起します。その時、Bという微細な実在の想を有する者になるのです。このように、学によってある想は生起し、学によってある想は消滅します。これが学なのです。

学(修行成果)により自己統一性を保ったまま、A(低次)想を脱皮し、B(高次)想へ羽化します。この時、次の二つのことが言えると思います。まず、Aレベルに煩わされることがなくなります。そして、Bレベルという新たな発見を得ることができます。釈尊は瞑想修行において、修行者の意識が一段階成長する過程をこのように説明しました。

これは瞑想修行による意識成長に限定される話ではなく、我々の身近な意識成長(逆に意識退行)でも同様のことが言えると思います。誰しも良い意味・悪い意味のいずれの場合であっても、「あの頃は分からなかったが、今なら分かる」という経験はあると思います。子供の頃はあんなに怖かったものが、今では全然怖くないという経験も同様です。

一つ上の階層へ行けると、下の階層にいた際に付きまとっていた苦悩から解放される、即ち、上の階層へ至った今、下の階層における苦悩は「空」であったと覚ります。しかし、上の階層には上の階層ならでは苦悩が存在することもまた事実です。今度は、それを克服して更に上の階層を目指すことになります。