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【やさしい般若心経】「不垢不浄」アングリマーラ経の教訓:過去を越えて至る安らぎ

 

原始仏典(パーリ仏典)にある「アングリマーラ経」の内容を紹介したいと思います。これは釈尊が凶賊アングリマーラを調伏、出家させ、阿羅漢に導くまでの出来事を教えとともに示したものです。

アングリマーラの本名はアヒンサカといいます。彼はコーサラ国にて、バラモンの子として生まれ、成長するとタッカシーラ(都市名)で技芸を学び、師匠に可愛がられていました。しかし、これに嫉妬した仲間の謀略、そしてアヒンサカを誘惑して断れた師匠の妻の逆恨みによって、師匠は自分の妻がアヒンサカによって強姦されたと誤解してしまいます。

激怒した師匠はアヒンサカを陥れるために、「技芸の完成には千人(百人とする説もあり)の右手の指を集めてくることが必要である」と言い渡します。師匠に恨まれていることを知らない彼はその教えに苦しみ、思い悩みましたが、尊敬する師匠の言葉を信じてそれを実行にうつしてしまったのです。

彼は正気を失い、コーサラ国で殺戮に明け暮れ、人の指で華鬘を作ったため、アングリマーラ(指鬘)と呼ばれるようになりました。討伐の兵士達から逃げきり、ついに最後の1人で目的達成となったときに釈尊と出会いました。彼は釈尊を最後の標的と決めます(アングリマーラが最後の標的に自分の母親を狙ったところを釈尊が止めに入ったとする説もあります)。しかし、ここでアングリマーラは不思議な体験をします。ゆっくり歩いているはずの釈尊を全力で追いかけるのですが、全く追い付くことができず、圧倒されてしまいました。彼はついに「止まれ!」と言い放ちます。

そんなアングリマーラ釈尊は次のように言葉を返します。

私は止まっている。私は棒(武器)を置いており、生きとし生けるものへの傷害心を起こすことなく止まっている。アングリマーラよ、そなたこそ止まれ。そなたは生きとし生けるものへの傷害心によって止まることができずに苦しんでいる。」

アングリマーラはここではじめて正気に戻りました。釈尊の話を聞き、自分は邪教に騙されていたことに気付き、全ての武器を投げ捨て、釈尊のもとで出家して比丘となりました。それからの彼はまるで生まれ変わったかのようであり、アングリマーラ討伐のためにサンガ(僧団)を訪れた王や兵士達も彼の振る舞いに驚き、サンガへ敬意を示し、捕縛することなく帰っていきました。

あるとき、アヒンサカ(アングリマーラ)長老は托鉢の最中に、難産で苦しんでいる女性を見て慈悲が生じ、彼は釈尊に自分に何かできることはないだろうかと相談しました。すると、釈尊は次のように答えます。

「アヒンサカよ、そなたはその女性のところへ行き、こう言うのです。『婦人よ、私は生まれて以来、故意に生き物の命を奪った覚えがありません。その真実によってあなたは安らかになりますように。胎児は安らかになりますように。』と。」

真実の言葉(真言)には不思議な力があると言われていました。当時のインドにはこのようなバラモン教文化が一般市民の生活にも根付いていました。

しかし、アヒンサカ長老は当然次のように言います。

「尊師よ、それでは意識的な嘘をつくことになります。なぜなら、尊師よ、私は故意に多くの生き物の命を奪ったからです。」

すると、釈尊は次のように言います。

「それではアヒンサカよ、そなたはその女性のところへ行き、こう言うのです。『婦人よ、私は聖なる生まれによって生まれて以来、故意に生き物の命を奪った覚えがありません。その真実によってあなたは安らかになりますように。胎児は安らかになりますように。』と。」

釈尊の言う「生まれて以来」とは、アヒンサカが生まれ変わって以来、即ち釈尊のもとで出家してからのことを指していたのです。彼は釈尊に感謝し、その通りに行い、女性も胎児も安らかになったといいます。その後、長老はますます修行に励み、阿羅漢となりました。

しかし、相変わらず、托鉢に出ると石や棒がアヒンサカ長老へ投げつけられます。鉢も割れ、大衣も裂かれ、頭から血が流れます。被害者遺族達からの仕返しに遭っていたのです。生まれ変わったといっても過去に殺めた命が戻るわけではなく、その罪が消えることはありません。これらの仕返しは受け止めなければならないものと言えます。釈尊はそのような彼を見て次のようにいいます。

「漏尽者よ、そなたは耐えなさい。そなたが来世に地獄で数千年にわたって受けるはずだった業の果報を、現世において受けているのです。」

アヒンサカ長老は釈尊に感謝し、静かに独座して解脱の安らぎを味わったと言われます。その心境は次の感興の言葉で知ることができます。

かつてなした悪業を、善によって包むならば、かれはこの世を輝かす。雲を離れた月の如くに。

法句経より

彼の心の中には、常に「アヒンサカ長老」と「償いの道を模索するアングリマーラ」の二人が存在していたと思われます。特に、被害者遺族に仕返しを受けた際にはアングリマーラとしての自責が邪魔をして、彼は何度も「自分は生きていていいのだろうか?」と死を考えたかもしれません。

しかし、釈尊から「聖なる生まれによって生まれて以来」という言葉を聞いて以来、アヒンサカはそんな自身の心の状態に気付いて、向き合うことができたのではないでしょうか。上記の感興の言葉は、おそらく「アヒンサカ長老」が「アングリマーラ」へ日々行っていた説法でもあり、それによって彼は迫害や自責の念に潰されて自害することなく、強く生きていけたのではないかと思います。

そんなアヒンサカ長老は徐々に人々から理解されていき、次第に暴行を受けることもなくなっていったと言われています。

浄土真宗親鸞の教えに、

氷多きに水多し、障り多きに徳多し

というものがありますが、禅語にも

泥多ければ、仏大なり

とあります。

氷(固い氷)が多ければ多い程、それが溶けた後の水(人の喉を潤す柔らかい水)量は多く、また、材料となる泥がたくさんあればそれだけ大きな仏像を作ることができます。仏教では、善を行うのに遅すぎるということはなく、好ましくない過去を持つ人であろうと、これからの行い次第で、アヒンサカ長老のように安らぎ(涅槃)に至ることも可能ということになります。そして、自身の好ましくない過去の経験が煩悩と悪に埋もれて苦悩する者を導く糧となるかもしれません。