中国の禅僧である大竜禅師に、ある修行者が「形あるもの(色身=肉体)は滅びるとということは知っていますが、永遠の命・真理(法身=真如)とは何ですか?」という質問しました。
すると、大竜禅師は次のように答えたと言われてます。
山々に咲いた花はまるで錦のように美しい。しかし、美しく咲いた山の花もやがて散ってしまいます。
(少量では無色透明に見え、実は僅かに青色を呈する水が)まるで藍のようになるまで深く湛えて、動く気配も見えない深い澗の水も流れるともなく流れています。
遅い速いの差はあるものの、移りゆかぬものは何もなく、それが永遠の命・真理と言われるということです。
ここで「移り変わる」と言っても、その移り変わりの前後で「変化するもの」と「変化しないもの」があることが分かります。例えば、散った山の花は「山の花である」ことから変化して、「大地の養分である」ことになっただけであり、それが「存在する=有る」ことに何ら変化はありません。大地の養分へと移り変わった山の花は、次に咲く花達の栄養となります。それは世代交代、バトンリレーの如く。澗の水も同様です。滅ぶことなく、新たに生じることなく、不生不滅です。
真如には二義があります。一に「不変真如」であり、あらゆる生滅変化の相を超えた不動の真如そのものです。二に「随縁真如」であり、真如は不生不滅ながらも様々な因縁に応じて種々の差別相として生起します。
また、浄土真宗の僧侶、金子大栄氏の次のような言葉があります。
花びらのように、人の肉体(形)もまた、やがて滅び行くものですが、その人は、彼(彼女)と大切な時間を過ごした人々・彼(彼女)の背中を見てきた人々・直接の関わりの有る無しを問わず、彼(彼女)を尊敬する人々、その意志を継ぐ人々の中で「花」として生き続けていることになります。一度散っても、姿形を変えて再び咲いた「花」、それは私達の中にも。